かつて日本代表に一発かました「香港の瑛人」 笑顔の裏の「憧れのJリーグ」への思いと覚悟
中国語はまったく分からないが、話している表情にじっと見入る。本人は、真正面に座った記者が真剣な顔で自分を見つめながら、こんなことを考えているなんて夢にも思わないだろう。
「やっぱり、瑛人に似ている…」
写真を見せても、家族は「似てない」とにべもないが、「香港の瑛人」が日本に上陸した。そう確信した。
Jリーグ3部(J3)のY.S.C.C.(横浜スポーツ&カルチャークラブ。以下、YSCC)に、リーグ史上初の香港人選手が加入した。その名は「アオチョン」。今年7月で32歳になるMFで、本名のアオヨン・ユーチョン(歐陽耀冲)では長いので、愛称で呼ばれてきたそうだ。日本でも「キムタク」や「瑛人」が呼び名になるのと同じことか。
かつて香港代表で背番号10をつけ、国際Aマッチ17試合出場4得点。香港でプレーした元Jリーガーによると、20代半ばのアオチョンは「典型的な“10番”タイプで、守備はしなかった。当時から、結構人気があった」という。
あるクラブ関係者は、「香港では中田英寿レベルの人気らしい」と話す。香港で働く高校時代の友人に、現地同僚の評価を聞いてもらうと、「それほどの人気でもない」。本人に「すごく人気らしいけど?」とぶつけると、「何番目に有名かは分からないけど、他の選手とは違っていつも海外に挑戦しようと戦っていることで、たぶん皆に知ってもらっているという自覚はあります」。はにかみながら、そう答えた。
Facebookでは、1万人にフォローされている。香港の人口や環境を鑑みると判断に悩むが、昨年一気にブレイクして紅白歌合戦出演にまで上り詰めた、シンガーソングライターの瑛人のツイッターのフォロワーは3万8000人。周囲と本人の評価も合わせて考えると、やはりなかなかの人気ではあるような気がする。
SNSの投稿を見ると、チャラいとは言わないが、少し軽そうだ。よく投稿しているシーフードのデリバリーサービスは、昨年に自分で始めたサイドビジネスだという。このコロナ禍で、ちゃっかりしているというか、しっかりしているというか…。
一方で、昨年はサッカーに関する投稿は少なかった。というよりも、試合も練習も投稿されていない。それもそのはず、所属チームがなかったのだ。
Youはどうして日本へ?
「Jリーガーになるのが、子どもの頃からの夢でした」
真っ直ぐな視線で、そう答えた。
ポルトガルと中国で味わった失意
Jリーグ開幕の4年前に生まれたアオチョンにとって、サッカーの世界に導く伝道師は日本にいた。キャプテン翼、そしてJリーグ。憧れの選手は「キング・カズ」こと三浦知良だと言って、目を細めた。
香港のリーグでは、現地人が出場機会を得るのは簡単ではないのだという。体や技術で上回る外国人選手が香港に帰化して、主力メンバーとなることが多いからだそうだ。若くしてデビューを飾れた自身を、「ラッキーでした」と振り返る。
アオチョンにとっては、むしろ20代半ば以降の方が難しい時間だったかもしれない。ここ5年ほど、ほとんど試合に出場していないのだ。
苦しみには、しっかりとした理由があった。
2014年に飛び込んだポルトガルは、2部リーグながら「レベルが相当高かった」と、自身の力不足を認める。一方で、こちらも2部ながら2015年末に挑戦した中国では、練習試合で結果を出しても、地元選手を優先する監督の起用、さらにケガに泣かされたという。
失意のうちに28歳で戻った香港でも、出場機会を得られなかった。国境の壁はないはずだが、帰郷後にかこった3年間の不遇にも理由があるのだという。
足かせになったのは「夢」だった。
3つのクラブと単年契約を結ぶ際、香港では異例の条項を盛り込んだ。国外挑戦のチャンスが生まれた際には契約を解除できる、というものだ。失意を味わった後でもなお、高いレベルに身を置いて勝負したかったのだ。
前述のように、ただでさえ香港人の試合出場は簡単ではない。しかも突然いなくなる可能性があるとなっては、好んで起用とする監督はいなかった。
コロナ禍での決心
昨年は、さらなる逆風が吹いた。大陸中央から吹き荒れた、新型コロナウイルスの世界的感染拡大である。
香港プレミアリーグはシーズン途中の3月に中断され、4月には早々と再開時期の大幅な延期が決まった。経営を圧迫する状況に、4つのクラブがシーズンの棄権を決定。その中に、アオチョンが所属するレンジャーズも含まれていた。
試合がなく、グラウンドもトレーニング施設も使えない。この非常事態に、アオチョンは覚悟を決めた。クラブに契約解除を申し出たのだ。
クラブに意をくんでもらうと、夢に懸けた。自ら会社を立ち上げたのは、糧を得ながらチャンスを待つためだった。
地元メディアには、プロレベルの体を維持するため、毎週6日間トレーニングしながら懸命に会社を運営したと話している。そこでも説き続けていたのは、サッカーでの国外挑戦という夢だった。
前年の2019年末にJリーグの合同トライアウトに参加していたが、声はかからなかった。ポルトガル、中国に続き、失意を感じたことだろう。それでもあきらめず、昨年末にJクラブの練習に参加した。横浜FCでは、憧れのキング・カズと一緒にトレーニングした。数クラブをまわった末、ようやく合格印をくれたのが、故郷と同じく港町を本拠地とするYSCCだった。
ついに憧れの地へたどり着いたが、舞台は3部リーグだ。それでも、「香港のサッカー選手でも、レベルの高い日本でも通用すると証明したい」。1ゴール奪う、あるいは試合に出場するだけでも、どでかい花火を打ち上げたと認識されていい。
アオチョンには、すでに一発ブチかました経験がある。今から10年以上も前のことだ。
2009年12月、地元開催の東アジア競技大会でのことだ。背番号10とキャプテンマークをまとって決勝までチームを導き、U-20とはいえ日本代表を迎え撃った。
若き永井謙佑や大迫勇也を擁するチームを相手に、アオチョンは延長戦も含めた120分間にフル出場。自身は1番手となったPK戦で外して泣き崩れたが、残る全員がキックを決めて、うれし涙に変えてくれた。見事な金星であり、金メダルだった。
念願のJリーグ移籍は、おそらく選手として最後の挑戦になるだろう。
YSCCの入団会見に臨んだ表情には、ガッチガチの緊張が張りついていた。そう、初めてのテレビ出演で、見ている方が心配になるほど強張りながら、絞り出すように「香水」を歌った瑛人のように。
会見後の写真撮影で浮かべた笑顔も、ハマっ子としての先輩でもある瑛人のように無邪気だった。会見後にFacebookを見返すと、入国後の隔離期間を経ての新天地での初練習にカブリオレのスポーツカーで乗りつけて、決め顔でピースサインをする写真を載せていた。
やはり「チャラい」のかもしれない。何だか、心配にもなる。それでも、「香港の瑛人」がかますところを見てみたい気もする。本家に負けないほどの、どでかい一発を。