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3人の足利将軍は、なぜたびたび名前を変えたのか。納得の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
足利義教。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉と古田新太さんが演じる足利義昭の演技が評判となった。

 ところで、義昭の初名は義秋で、僧侶の勘進(考え調べて申し上げること)によるものだったという。永禄11年(1568)、越前朝倉氏の一乗谷(福井市)で義昭に改名した。

 ほかにも改名した将軍がいたので、うち3人を紹介することにしよう。

1 足利義教(よしのり:1394~1441)

 そもそも義教は庶子だったので出家して義円と名乗っており、将軍になる可能性は極めて低かった。

 しかし、応永35年(1428)に兄の将軍だった義持が病死したので、籤により6代将軍に選ばれた。還俗した義教は、最初、義宣(よしのぶ)と名乗っていた。

 正長2年(1429)、義教は義宣が「世を忍ぶ」に通じるとして嫌い、義教に改名した。ところが、もともとは公家らが協議したうえで、「義敏」が良いとされていた。

 義教は「教」という字が優れていると主張し、義教に決めたという。一見すると、語呂合わせの縁起担ぎのように思えるが、当時の人は気にしていたのである。

2 足利義稙(よしたね:1466~1523)

 義稙は義視の子として誕生したが、足利義尚とその父の義政が相次いで病没したので、延徳2年(1490)に将軍となった。最初の名前は義材(よしき)である。明応7年(1498)8月、義稙は義材から義尹(よしただ)に改名した。

 そのとき義稙は越中に逃れていたが、東坊城和長に書状を送り、15もの改名候補を送ってもらい、義尹に決めたという。このケースは、越中に追われていたので、事態を好転させるための縁起担ぎだろう。

 永正10年(1513)11月、義稙は義尹から義稙に名を改めた。このときも、東坊城和長が名付けてくれたという。

 この年、義稙は細川氏らと対立し、京都を出奔したうえに病に罹った。その後、細川氏らと和解し、京都に戻った。心機を一転するための改名であると考えられる。

3 足利義澄(よしずみ:1481~1511)

 義澄の父は、堀越公方の足利政知だった。義澄は出家して清晃(せいこう)と名乗っていたが、明応2年(1493)の明応の政変で足利義稙が失脚したので、後継の将軍に擁立されたのである。

 還俗した義澄は、義遐(よしとお)と名乗った。東坊城和長が名付けたという。しばらくして、義高(よしたか)と改名したが、いずれも改名した理由については不明である。

 文亀2年(1502)、義澄は義高から義澄に改名した。その際、石清水八幡宮の籤によって決定したというが、改名の理由は定かではない。

 実は同年、義澄は細川政元と対立し、将軍職を辞する動きを見せていた。最終的に和解して慰留されたものの、事態を好転させるため、あえて義高から義澄への改名に踏み切った可能性があろう。

 足利将軍に限らず、名前を変える理由は、政治的なターニングポイントを迎えて、気分を一新したいという事情があった。あるいは、義教のように文字や語呂を嫌う場合もあった。それは、現代社会でもあり得る話である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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