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羽柴秀吉が大坂城を築城した理由は、織田信長への燃えるような対抗心にあった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪城。前近代は「大坂城」と書いた。(写真:アフロ)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」は、羽柴秀吉が大坂城を築いた場面があった。秀吉が大坂城を築いた理由の一つとしては、織田信長に対する対抗心があったので解説しよう。

 大坂城の築城工事が開始されたのは、天正11年(1583)8月頃である。羽柴秀吉は三十数ヵ国から数万人の職人らを動員して、大坂城の大改修工事を敢行した。大坂城普請の監督的な地位にあったのは、黒田孝高と前野長泰であり、完成したのは2年後のことである。

 大坂は京都に近く、大坂湾の海上交通や淀川の河川交通も魅力だった。つまり、物資の流通経路としての至便性が高かったのである。経済的には、近くの堺(大阪府堺市)が商業都市として発展しており、大きな利点といえる。そのような理由によって、秀吉は大坂を拠点としたのだろう。

 この間、秀吉は工事に際して、細かな指示を行った。たとえば、天正11年(1583)に比定される8月19日付の秀吉書状(小野木重次・一柳市介宛)によると、石ならば千塚(大阪府八尾市)のものが良いとし、運ぶために千塚から若江(同東大阪市)の本道まで道を作るように指示している(『城下町大阪』掲載文書)。秀吉に相当なこだわりがあったのは、事実である。

 秀吉の大坂城築城は、さらに諸大名を動員して行われた。『十六・七世紀イエズス会日本報告』によると、最初は2・3万足らずの職人が工事に従事していたが、遠国の大名に動員を掛けた結果、ほぼ毎日約5万の職人が工事に携わるようになったという。もはや、秀吉は織田家を支える一宿老の枠を超えており、天下人を意識していたように思える。

 大坂城築城の意図や工事の様子については、『十六・七世紀イエズス会日本年報』に次のように記されている。

(秀吉は)己が地位をさらに高め、名を不滅なものとし、格においてもその他何事につけても信長に勝ろうと諸国を治め、領主としての権勢を振うに意を決し、その傲慢さをいっそう誇示するため、堺から三里の、都への途上にある大坂と称する所に新しい宮殿と城、ならびに都市を建て、建築の規模と壮麗さにおいて信長が安土山に築いたものを大いに凌ぐものにしようとした。

 この報告を見ればわかるとおり、秀吉は信長に燃えるような対抗意識を燃やしており、安土城(滋賀県近江八幡市)を凌ぐような城郭を築こうと目論んでいた。それは単に城だけではなく、安土城下を超えるような城下町の建設をも含んでいた。

 『十六・七世紀イエズス会日本年報』では続けて、大坂城築城の意図を秀吉の意図を「己の名と記憶を残す」ところにあったと指摘する。信長の亡き後、秀吉は周囲から畏敬されるとともに、一度決めたことは成し遂げる人物であると評されていた。この工事では、各地から何万もの人夫が動員されたが、秀吉の動員を拒否することは死を意味したとまで記されている。

 大坂城は天下統一の覇者にふさわしい大城郭で、本丸、二の丸、三の丸が設けられ、さらには外郭(総構)も整備された。その本丸には、五層八重の天守が建てられ、大坂城は秀吉権力の象徴といっても過言ではなかった。秀吉は信長への強い対抗意識を持ち、必ず大坂城を完成させるという強い意気込みで臨んでいたのだ。

 秀吉の信長への燃えるような対抗心の記述は、外国の史料にしか見られない。ただ、人夫の数や諸大名の動員などを考慮しても、もはや秀吉の権力は天下人と等しかったのではないか。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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