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大坂冬の陣後の和睦が決裂し、もはや応戦するよりほかがなかった豊臣秀頼

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、大坂冬の陣後の和睦が決裂した模様が描かれていた。その結果、大坂夏の陣がはじまったのであるが、戦いを回避することができなかったのか考えてみよう。

 慶長19年(1614)10月に大坂冬の陣が開戦すると、徳川方と豊臣方は死力を尽くして戦った。当初、大軍を率いる徳川方が優勢と思われたが、牢人が主体だった豊臣方も頑張りを見せ、その結果、両軍の間に和睦の気運が生じた。

 和睦の条件で重要なのは、第一に大坂城の惣構を破却し、堀などを埋め立てることである。第二に、牢人の罪を問わず、大坂城外に召し放つことだった。

 大坂城の惣構を破却し、堀などを埋め立てることは、城としての防御機能を失うことを意味した。この措置によって、豊臣方が再び徳川方に戦いを挑むのが難しくなった。牢人を大坂城外に召し放つことは、豊臣方の軍事力の放棄を意味する。

 つまり、徳川家康は豊臣方が一切の軍事力を放棄すれば、これ以上の戦いを望まなかったと考えられる。事実、大坂城の惣構を破却し、堀などを埋め立てたあと、諸大名は完全に戦争が終わったと思っていたようである。

 しかし、ことはそう簡単に終わらなかった。豊臣方には徹底抗戦派がおり、戦闘継続を主張し、逆に牢人衆を募っていたのである。この情報は、ただちに家康のもとに伝わった。

 ドラマのなかでは、家康が淀殿に書状を送り、これ以上の戦いを望まない旨を伝えていた。これを受けて、淀殿は子の豊臣秀頼に対して、家康の軍門に降るか、あるいは徹底抗戦するのか判断を迫った。結果、秀頼は戦いの道を選んだのである。とはいえ、これはフィクションにすぎないだろう。

 実際のところ、豊臣方には和睦派と徹底抗戦派がおり、半ば後者が独断で牢人衆を呼び寄せた感がある。その結果、豊臣方の重臣である大野治長も弁解しきれず、家康は問答無用と言わんばかりに、大坂城への攻撃を決意した。そして、諸国の大名に出陣を命じたのである。

 つまり、大坂城に続々と牢人衆が集まった時点で、家康は豊臣家を滅亡に追い込むことを決めていたといえよう。いかに家康とはいえ、堪忍袋の緒が切れたのである。

 したがって、ドラマのように、家康が淀殿に自身の意向を知らせたり、淀殿が秀頼に決断を迫るなどはあり得ない。豊臣方には主導権はなく、降伏か徹底抗戦の選択の余地はなかった。必然的に後者のみしかなかったのである。

 ましてや、家康の言うところの「戦のない世」とは、ドラマでいうような民を戦乱の苦しみから救うためのものではなく、大名から民に至るまで家康に従うという、自分にとって都合の良いものだったことに留意すべきだろう。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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