ウィキペディアには載っていない名将が死去。3校を甲子園に導いた樺木義則氏の軌跡をたどる
行く先々できっちりと結果を出す
間もなく春のセンバツの出場校が決まる。高校球児の大目標である甲子園は、監督としてもたどり着くのが難しいところである。
その甲子園に3校を導いた名将が1月2日に死去した。神奈川・武相高、東京・修徳高、そして母校の石川・金沢高で監督を務めた樺木義則氏(享年77)である。武相高と修徳高で1度ずつ、金沢高では6度と、春、夏合わせて計8度、「聖地」で指揮を執った。
樺木氏よりも多く甲子園を経験している監督は少なくない。だが3校で、となると極めてまれだ。ビジネスマンに例えるなら、在籍した先々で結果を出したことになる。率いたのはいずれも私学。樺木氏は社会科の教諭でもあったが、野球部を強くすることを求められていたに違いない。その中できっちり答えを出した。なかなかできることではないだろう。
樺木氏は選手でも甲子園に出ている。1962年夏の甲子園、金沢高の正捕手として甲子園の土を踏んだ。大学は東都リーグの名門、駒澤大へ。後輩に元ヤクルト、元横浜ベイスターズ監督の大矢明彦氏がいたのもあり、レギュラーにはなれなかったが、指導者を目指して裏方に転身。リーグ戦では3塁ベースコーチとして貢献した。
早実の5季連続阻止にあと1歩及ばず
指導者人生のスタートは武相高。樺木氏は監督に就任すると、いきなり68年夏の甲子園(武相高としては2年連続)に導く。この時のエースは島野修氏である。阪急、オリックスで、球団マスコットのスーツアクターとして活躍していたことを覚えている人も多いだろう。同年のドラフトでは巨人から1位指名を受けた。当然、自分の名が呼ばれると思っていた星野仙一氏(元中日投手、元東北楽天監督など)が「ホシとシマの間違いでは?」と言ったのは有名な話だ。
在任中は第1回日米大学野球選手権大会で、試合中の不慮の事故で亡くなった東門明氏(当時早稲田大2年)も指導。一般入試で早大に入学した東門氏は、自慢の教え子の1人でもあった。東門という素晴らしい選手がいたことを忘れないでほしい―。樺木氏は、社会科の授業でもよく東門氏の話をしていたようだ。
群雄割拠の神奈川には、樺木氏が目標とする監督もいた。東海大相模高の原貢氏である(巨人・原辰徳監督の父)。原氏に勝たなければ甲子園はない。闘志を燃やす一方で、70年夏に(三池工業監督時代の65年夏に次ぐ)全国制覇を遂げた原氏のもとによく足を運び、教えを乞うたという。
2校目となる修徳高でも、監督就任後すぐの79年春にセンバツ出場を果たす。前年秋の東京大会準決勝では、評判が高かった桜美林高の速球派右腕を攻略。そのスピードに対応するため、大学後輩の駒大の1、2年生投手に打撃投手を頼んだ執念の練習が実った。
修徳高監督時代のハイライトは、82年夏の東東京大会決勝だろうか。この大会、当時3年の荒木大輔氏(元ヤクルトほか)を擁する早稲田実業は「5季連続甲子園出場」がかかっていた。樺木氏にとって早実は、武相監督時代の東海大相模のような存在だった。
神宮球場が「荒木ギャル」で埋め尽くされた中、両者譲らぬ展開になったが、最後は早実がサヨナラ勝ち。追い詰めた修徳高は、あと1歩、及ばなかった。それでも後年、荒木氏に取材をした際、「あの試合…あの試合ですね。僕らは正直、負けたと思いました」と言っていた。そのくらい紙一重の試合だったのだ。野球には「もし」はないが、樺木氏が早実の「5季連続」を阻んでいたら、「監督・樺木」の評価はより高まっていたかもしれない。
甲子園に届かない監督もたくさんいる
3校目の金沢高の監督になると、待っていたのが、すでに星稜高で名監督になっていた山下智茂氏(現・名誉監督)である。樺木氏と山下氏は同学年で、同じ石川県の高校出身。駒大では同期だった。しかし、当時の駒大OBによると「同郷なのにバチバチの関係でしたね」。選手でも甲子園に出ていた樺木氏は、監督としても山下氏を先んずる形になったが(山下氏の初出場は72年夏)、この頃は甲子園での実績という点では山下氏がリードしていた。
「あいつにだけは…」。樺木氏は包み隠すことなく口にしていた。武相時代は東海大相模、修徳時代は早実だった「標的」であり、「最大のライバル」は星稜高に、そして山下氏となった。選手のスカウトでもたびたびかち合ったという山下氏とは、何度も甲子園をかけた夏の石川県大会決勝で相まみえた。
樺木氏は名将であることには間違いないが、なかなか甲子園で勝てない監督でもあった。初めて勝ったのが、選手時代も含めて5度目の出場となった87年夏である。よほど嬉しかったのだろう。インタビュアーが質問を始める前に「やっと勝てました」と、感無量の表情で切り出したのが印象に残っている。
最高成績は90年春のセンバツでのベスト8。元福岡ダイエー、元福岡ソフトバンクコーチの中居殉也(当時3年)らがいた。一方で、全国ベスト8はあるものの、甲子園での通算成績は3勝8敗と「甲子園に愛された監督」だったとは言い難い。しかし、樺木氏は生前、こう語っていた。
「一生懸命にやっていても、甲子園に届かない監督さんはたくさんいる」と。
いかに自分が幸せで、幸運であるか。言外にはそんな含みが感じられた。
3校を甲子園に連れて行った樺木氏も、ウィキペディアには載っていない。2005年に道都大(現・星槎道都大)の監督を退任してからは、指導の表舞台から姿を消したのもあり、ネット検索でその功績に触れるのは難しい。もしかしたら、高校野球ファンにとっても、知る人ぞ知る大監督かもしれない。
高校野球に尽力した1人の名将がひっそりと旅立った。
謹んでお悔やみ申し上げます。