「幻の伏見城」を含む4つの伏見城を訪ねて
伏見には現在の「伏見桃山城」を含めて歴史上4回も城が造られた。今回はそれらを全て紹介したい。まずは近鉄「桃山御陵前」駅からスタート。東へ進むとすぐに出てくる御香宮神社の表門は、かつて徳川家康が造った伏見城の大手門を、水戸藩の初代藩主徳川頼房が移築したものだ。
最初に目指すは「指月伏見城」と呼ばれる豊臣秀吉が最初に造った伏見城。その跡地は国道24号線の御香宮前の交差点から南へ300メートルほど下った東側の団地の中にある。
遺構がなかなか発見されず、「幻の城」であったが、2015年にマンション建設時に発掘調査が行われ、深さ3メートル、長さ40メートルにもわたる堀跡等が見つかり、金瓦をはじめとした多くの種類の瓦も出土し、発掘された石垣を見ると穴太積であることまでわかった。その際に出てきた石垣の一部を、マンションの横に並べて展示しているのでぜひ見ておきたい。
この初代伏見城である指月伏見城は、文禄5(1596)年に完成したが、同年に慶長伏見地震が発生し、倒壊した。秀吉は辛うじて難を免れたが、城内では600人もの人が亡くなったという。幸い火災は発生しなかったため、翌年には北西約1キロの木幡山にさらに大規模に2回目の伏見城を築城、こちらは区別するために「木幡伏見城」と呼ばれる。しかし秀吉は翌年にこの城で亡くなってしまう。こちらへ行くには、もう一度御香宮前の交差点に戻って東へ。JRの踏切を渡って進むと、交差点から1.3キロで明治天皇陵への入口へたどり着く。この天皇陵こそ、木幡伏見城の本丸跡である。
秀吉亡き後は、城主は徳川家康に変わったが、慶長5(1600)年に勃発した関ヶ原の戦いの前哨戦でこの城は戦場となる。家康の居城であったため、西軍によって攻められ、留守を預かっていた鳥居元忠ら1800名はこの城を枕に壮絶な最期を遂げ、その時流れた血は床に染みついたという。のちに家康がこの床を複数の寺院に奉納して菩提を弔い、各寺院はこれを天井に祀ったことから「血天井」と呼ばれている。
落城した伏見城は炎上したことから、慶長7(1602)年に徳川家康が再度同じ場所に造り直し、この城で将軍宣下も受けた。これが3回目の伏見城で、同じく「木幡伏見城」ということになる。城は元和5(1619)年に一国一城の制により廃城。その建物や石垣は、いろんな場所へと転用されることとなった。京都では御香宮神社の他に、豊国神社や西本願寺の唐門が遺構と伝わる。
明治天皇が眠る伏見桃山御陵は、天智天皇陵をモデルに古式にのっとった上円下方式で造営され、墳丘にはさざれ石が葺かれている。大正天皇以降の天皇・皇后の陵は東京都八王子市に造られたため、近畿地方以西に造られた最後の天皇陵となった。すぐ東には昭憲皇太后の伏見桃山東陵が隣接している。
最後に北西方面に築城された4回目の伏見城である「伏見桃山城」へ。昭和39(1964)年に伏見城を模して鉄筋コンクリート製の模擬天守が造られ、周囲には遊園地が造営され、「伏見桃山城キャッスルランド」と呼ばれて人気を集めた。1978年のピーク時には100万人に迫る入園者数がいたが、年々下降の一途を辿り、2003年に閉鎖した。跡地は京都市により運動公園として整備され、解体予定だった模擬天守は、地元の要望で残されて現在に至っている。公園の北側には巨大な堀跡も残っているので、足を伸ばしておきたい。
これで全ての城を巡ったが、最後に今なお「同じ場所」に伏見城の遺構を持つ栄春寺を紹介したい。伏見桃山城から桓武天皇陵を経て、北西へ700メールほど歩く。永禄11(1568)年に開かれた曹洞宗の寺院で、境内に残る山門も伏見城の遺構(移築)であり、観音堂(非公開)の天井は血天井と伝わっているが、より凄いのが、伏見城の総構え(土塁)が現存していることだ。この土塁の上は広大な墓地になっており、今なお活用されている。観光寺院ではないので、拝観する場合は一声かけるなど配慮が必要だが、ぜひとも訪れてみてほしい。栄春寺からは北に進めば京阪電車の墨染駅、南に進めば近鉄丹波橋駅があり、最寄り駅となる。
秀吉と家康が天下を睨み、一時は日本の中心となった伏見。現在はお酒の町として知られているが、天下人の城下町であったことから全国大名の名のついた町名も数多く残っている。日本の近世始まりの地を体感してほしい。