フレディに教えられたセクシュアルマイノリティの孤独と愛
11月24日はロックバンド「クイーン」のリードボーカル、フレディ・マーキュリーの命日。フレディの人生を描いた映画「ボヘミアン・ラプソディ」が昨年から大ヒットし、改めてフレディの生き方やクイーンの楽曲に注目が集まりました。彼の人生を通して、マイノリティの孤独と愛、多様性を認め合うことについて考えました。
〇複雑なルーツ、音楽が居場所
イギリスで1971年に結成された4人組のクイーン。ファンではなかった筆者が見ても、映画に登場する数々の名曲とそのエピソードにしびれました。フレディのアップダウンする人生の物語が描かれる中、何より心に刺さったのは、彼の孤独でした。
フレディのルーツは複雑で、アフリカ・タンザニア沖のインド洋に浮かぶ島・ザンジバルで生まれ、両親はインド人。出自や容姿にコンプレックスを持ち、父親と対立し、「部屋でひざを抱え、音楽が居場所だった」と語っています。スターになってからも、セクシュアルマイノリティだったことで、オープンにしづらく理解されがたい苦悩を抱えていました。
物語の若きフレディは、ガールフレンドのメアリーといい関係でした。クイーンのアメリカツアーで離ればなれになり、フレディは自分が男性に惹かれることに気づきます。メアリーにそれを告げ、フレディは破滅的な行動をしたり、マネジメントの関係者に振り回されたり……。多数の人と接してもフレディにとって、メアリーは心のよりどころでした。でもメアリーは、新しい道を選びます。
〇マイノリティの孤独教えられた
映画を通して、フレディの叫びが伝わってきました。
「ガールフレンドに頼りたい。でも男性を求める衝動も抑えられない」
「周りの人と違うけれど、自分に正直に生きたい」
「マイノリティであることを公にしないほうがいいのだろうか」
「家族同様のバンドメンバーは妻や子どもがいるのに、自分は独りぼっち」
「誰かそばにいて」
「愛すべき人に出会いたい」
筆者が大学生だった90年代は、「LGBT」という言葉は一般的でなかったものの、「実はバイセクシュアルで」「ゲイなんだけど」という同級生がいて、「そうなんだ」と受け止めていました。
最近はセクシュアルマイノリティの報道も増えていますが、カミングアウトをめぐって亡くなる人がいたり、逆に周囲が過敏になりすぎたり、繊細なテーマです。感覚的にはわかったつもりでも、モヤモヤを抱えていた筆者に、物語のフレディは「セクシュアルマイノリティの苦悩はこういうことなんだよ」と具体的に教えてくれました。
クイーンの新アルバム発表会見の場面も印象的でした。メンバーは楽曲について話したいのに、記者たちがフレディのセクシュアリティや出自をしつこく追及。メディアの偏見と圧力が強調されていました。違う生き方をする人の苦悩を知ろうとすること。物事にバイアスをかけずに見ること。こうしたシンプルな心構えが大事だと、気づかされます。
〇愛する人たちと心が通った最期
フレディの物語には救いもありました。メンバー内の不和が広がっていた85年、世界に中継されるアフリカ難民支援ライブで、クイーンとして復活。観客と一体になったパフォーマンスを見せて感動を呼びました。
クイーンが活動した70年代から80年代にかけて、セクシュアルマイノリティであることを公表し、好意的に受け止められる時代ではなかったようです。イギリスでは60年代中頃まで同性愛は法律で禁じられていました。「同性愛と異性愛」(風間孝・河口和也著、岩波新書)によると、70年代初頭にアメリカで同性愛解放運動が起こり、同性愛は犯罪や病気ではないとやっと認められました。
ところが70年代後半には、アメリカ各地で制定されていた性的指向に基づく差別を禁止する法令の撤回を求める運動が広がりました。81年に初めてエイズの症例がアメリカで報告、「男性同性愛者だけに広がる病気」と語られ、同性愛への嫌悪や攻撃が増してしまいました。
〇エイズの啓発にも貢献
フレディもエイズのため、91年に45歳で亡くなりました。現在は進歩している治療や啓発も当時はまだまだで、エイズを公表せずに闘病したそうです。厳しい運命だったかもしれませんが、恋人が寄り添い、メンバーや家族、友達と心が通っていたと伝えられ、最期は孤独が和らいだのではないでしょうか。
素晴らしい楽曲を生み出し、世界中で知られるフレディは、エイズの啓発にも貢献していると思います。この映画をきっかけに、エイズの問題を知る人もいるでしょう。そして愛すべきクイーンの仲間たちは、フレディの逝去後にエイズと闘うチャリティ財団「マーキュリー・フェニックス・トラスト」 を設立、活動を続けています。
(Forbes JAPANより)