豊臣秀吉が徳川家康に人質として送り込もうとした大政所とは、どんな女性だったのか
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、豊臣秀吉がなかなか上洛しようとしない徳川家康に対して、母の大政所を送り込もうと画策していた。大政所とは、いかなる女性だったのか考えることにしよう。
大政所が尾張国愛知郡御器所村(名古屋市昭和区)で誕生したのは、永正13年(1516)のことである。「なか(あるいは仲)」と称された。誕生年は、『太閤素性記』によるものである。
一説によると、美濃の鍛冶だった関兼貞(または関兼員)の娘といわれているが、確証があるわけではない。いずれにしても関連史料が乏しく、幼い頃の大政所の生活をうかがい知ることはかなり難しい。
大政所の妹が松雲院で、福島正則の母だった。また、従妹とも妹ともいわれる聖林院は、加藤清正の母である。正則と清正が秀吉の子飼いとして登用されたのには、そういう事情があった。
それゆえ2人は、「豊臣恩顧の大名」と称されている。しかし、慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦では、東軍の徳川家康に味方した。秀吉に恩はあったかもしれないが、運命までは共にしなかったのだ。
大政所の結婚相手が木下弥右衛門であり、2人の間には日秀(三好吉房の妻)と秀吉が誕生した。その後、さらに秀長と朝日(旭)姫を授かった。弥右衛門は織田家に伝わる足軽だったと伝わるが、事実か否か疑わしい。
天文12年(1543)1月に弥右衛門がなくなったので、大政所は織田信秀の同朋衆の竹阿弥(筑阿弥)と再婚した。そして、2人の間に誕生したのが、秀長と朝日(旭)姫であるといわれているが、誤りであると指摘されている。
その後、竹阿弥が亡くなったので、秀吉は大政所を不憫に思い、引き取ることにした。秀吉の妻「おね」は歓迎し、長浜城(滋賀県長浜市)内で仲睦まじく暮らしたといわれている。とはいえ、あくまで想像レベルの話であって、そういう事実を事細かに書いた史料はない。
大政所に転機が訪れたのは、天正13年(1585)に子の秀吉が関白に就任したことだった。勅命により大政所を賜り、従一位に叙せられたのである。翌年、大政所は人質として、家康のいる岡崎に向かった。しかし、晩年は病気がちで、聚楽第、その後は大坂で闘病生活を送ったという。
文禄元年(1592)、秀吉は大政所が危篤であると一報を耳にし、ただちに肥前名護屋城(佐賀県唐津市)から大坂へと戻った。しかし、すでに大政所は亡くなっており、聚楽第にたどり着いた秀吉はあまりの悲しみに倒れ伏したと伝わっている。
主要参考文献
渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)