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豊臣秀吉は文字すら満足に書けない無学な男だったのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:イメージマート)

 現在、大学へ進学する人は、50%を超えるような時代になった。豊臣秀吉は農民の子として産まれ、幼い頃は読み書きの勉強ができなかったので、満足に文字すら書けなかったという。それは事実なのか、考えてみることにしよう。

 戦国時代において、武将が書状を差し出す際は、右筆(代筆する職務)が代わりに書くことが多かった。忙しいのだから、当然なのかもしれない。しかし、自筆で手紙を出す武将も少なからずいた。

 一般的にいえば、文字を書けなかった武将は、極めて少なかったと考えられる。ところが、秀吉は農民の子だったので、文字すら書けない無学な男だったというのである。

 江村専斎の『老人雑話』には、「秀吉はもともと農民の子だったので、大変な無学だった」と書かれている。同書によると、右筆が醍醐の「醍」の字を失念したので、秀吉にどのような文字だったのか質問したという。すると、秀吉は「大の字を書いておけ」と答えたのである。

 そのような理由から、『老人雑話』には「秀吉は無学で読み書きができなかったので、秀吉が作ったとされる和歌は、大村由己の代作にすぎない」と書かれている。

 大村由己とは、秀吉に仕えた御伽衆の1人で、『天正記』などを書いたことで知られている。つまり、文字すら書けない秀吉には、作歌などできないだろうということである。

 『曽呂利狂歌咄』には、秀吉があまりに無学だったので、御伽衆の曽呂利新左衛門に翻弄されるエピソードがたくさん紹介されている。たとえば、秀吉が「奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く蛍」と発句を詠んだので、人々から物笑いにされたという話がある(蛍は鳴かない)。

 このようなエピソードは、講談や落語で紹介されたので、広く知られるようになり、秀吉は文字も書けない無学な男だったという説が定着した。秀吉には自分で書いた消息(手紙)が残っているが、平仮名のものが多い。それゆえ、秀吉は漢字を知らないので、平仮名でしか文字を書けなかったといわれるようになった。

 ところで、『老人雑話』は荒唐無稽な話を数多く載せるので、そもそも信が置けない。曽呂利新左衛門については、実在すら疑わしいうえに、『曽呂利狂歌咄』も『老人雑話』と同じく荒唐無稽な話ばかりである。

 したがって、先述した秀吉が無学であることを示す話、文字を書けないという話は疑わしいといえる。また、秀吉は漢字で書いた自筆の書状が残っているので、決して平仮名しか書けないわけではないのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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