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大坂夏の陣後、豊臣秀頼の子はどのような運命をたどったのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀頼首塚。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」が12月17日で最終回を迎え、豊臣秀頼と淀殿は大坂城で自害し、秀頼の妻の千姫は辛うじて城外に脱出した。戦後、秀頼の子はどのような運命をたどったのか、考えてみることにしよう。

 慶長20年(1615)5月、大坂夏の陣が終結し、秀頼は自害して果てた。秀頼と千姫との間には、実子がいなかったが、側室との間には2人の子供がいた。

 男子の国松は慶長13年(1608)の生まれなので、大坂の陣後はまだ8歳の少年だった。国松は大坂城落城後、乳母とともに脱出をしたという。

 ところが、国松は伏見町に潜伏しているところを発見され、5月22日に京都所司代の板倉勝重のもとに送られたのである(『綿考輯録』)。

 その翌日、国松は六条河原で処刑された。その墓は誓願寺(京都市中京区)にあったが、のちに豊国神社(京都市東山区)に移されたという。これにより、豊臣家は事実上断絶した。

 一説によると、国松は徳川家康に対し、豊臣秀吉と秀頼への背信行為を責め、自ら首を差し出したという(『日本切支丹宗門史』)。やや脚色を感じるが、武士の子として毅然とした態度を取った様子がうかがえる。

 8歳の少年の処刑は、見物人も哀れに思ったほどだった(『梵舜日記』)。細川忠興もその死を悼んだが(『綿考輯録』)、家康は後々のことを考えると、国松を死罪にせざるを得なかったのである。

 秀頼には奈阿姫という女子がおり、慶長14年(1609)に誕生したので、大坂城の落城時は7歳の子供だった。戦後、千姫は奈阿姫が実子でないにもかかわらず、家康に助命嘆願を行ったという。その結果、家康は千姫の願いを受け入れ、奈阿姫の命を助けたのである。

 しかし、助命に際しては奈阿姫が鎌倉の東慶寺に入り、出家するという条件があった。奈阿姫が仏門に入ることで再婚の芽をなくし、豊臣家復活の可能性を完全に断とうとしたのだろう。

 東慶寺は、離縁を希望する女性が駆け込む「縁切寺」として有名な寺院である。奈阿姫は出家して天秀尼と名乗り、東慶寺の第20代住持になった。

 住持となった天秀尼は、家康に東慶寺の縁切寺としての寺法存続を願い許可された。同時に、千姫らの助力を得て、客殿、方丈の再興に尽力したのである。天秀尼は豊臣家の存続を断念したものの、以後は東慶寺の発展に尽力したのである。

 天秀尼は、正保2年(1645)に37歳で亡くなった。しかも出家していたため、子供はまったくいなかった。天秀尼の死により、名実ともに豊臣家の血は絶えてしまったのである。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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