「助けは来ない。だから自分たちでやる」軍事政権に挑むミャンマーの若者たちの希望と苦悩を聞け①
椰子の木が真っ二つに折れ、高床式住居は廃屋のようだ。床板の黒い染みは、死亡した家主の血の痕だという。数十メートル離れた空き地には、爆撃で陥没した穴。不発弾も埋まったままだ。
ミャンマー東部のタイとの国境近く。少数民族武装勢力、カレン民族同盟(KNU)支配地域であるこの一帯に、ミャンマー国軍は、6月から激しい空爆を続けている。夜間に爆撃されたこの村では3人が死亡し、一帯では、学校や病院なども被害を受けている。
ミャンマーで国軍がクーデターを起こしてから1年半が過ぎ、軍事政権の行動は、なりふり構わぬ様相を帯びている。抵抗勢力が活発な地域で空爆や放火、虐殺をエスカレートさせ、国際社会の中止要請にもかかわらず7月末、民主活動家4人の死刑を執行。その数日後に日本人ジャーナリストを逮捕・起訴し、9月には元英国大使夫妻が禁錮1年の刑を言い渡された。
背景にあるのは、抵抗勢力を抑え込めない焦りと、「国際社会は非難や憂慮を表明する以上の行動には出ない」という判断だろう。もっともその判断は、軍事政権に抵抗する市民、中でも武器を取った若者らの思いと一致している。実際、ウクライナ報道と異なり、ミャンマーでの激しい空爆を外国メディアはほとんど伝えない。
「助けを待っていても仕方がない」「自分たちで軍事独裁政権を終わらせる」。ミャンマーとタイとの国境近辺のカレン民族同盟(KNU)支配地域で会った若者たちは、揺るぎない口調でそう語った。彼らはクーデターが起きるまでは、政治活動には無縁の10代、20代だった。学生、医師、海産物養殖業者、鉄道員、主婦…。ジャングルや軍尋問センターでの過酷な日々をくぐり抜け、国軍に挑み続けている。
なぜ武器を取り、どんな思いを抱き、いかなる問題に向き合っているのか。また凄惨な虐殺を続ける国軍とはどんな組織なのかー戦闘中や訓練中の動画や写真をスマホに保存している大胆さに世代の差を感じつつ、若者のほか、命懸けで離脱した国軍兵士らの話にも耳を傾けた。彼らの声をシリーズでお伝えする。
カレン民族同盟(KNU)は、ミャンマーで最大規模の少数民族武装勢力。カレン人の自治権拡大を目指し、1947年に結成された。2012年に当時の軍事政権と停戦合意したが、昨年2月のクーデターではいち早く国軍を非難。命を狙われた民主活動家や市民、離脱した国軍兵士や警察官を匿った。また、軍事訓練を希望する若者らを各地から受け入れ、関係者によると、その数は6万人以上。KNUのソートーニー報道官は、軍事政権に対抗して創設された民主派「挙国一致政府」(NUG)とは、紆余曲折を経ながらも「緊密な協力関係にある」と語る。軍事訓練を受けた若者のうち数万人がNUG傘下の「国民防衛隊」(PDF)に入隊した。うち多数がKNU主導の編成部隊に所属し、国軍に挑む。KNU以外の少数民族武装勢力から軍事訓練を受けた若者もいる。訓練を受けた若者たちが故郷に戻って結成したPDFグループは全土で500を超えており、指揮系統の構築がNUGの大きな課題だ。
■銃を取った26歳の医師
ネイトゥレインは26歳の医師である。最大都市ヤンゴン郊外の村で生まれ、6人きょうだいの長男として育った。「母の希望で医師になった」と言うが、性来の負けず嫌いとカンの良さ、責任感が言葉の端々から窺えた。情熱と無謀さ、繊細さも持ち合わせ、仲間から愛されるタイプである。自分を捨て国軍兵士と結婚したガールフレンドの写真をいまだにスマホから削除していないこと、クーデターが起きるまで政治には興味がなかったこと、安月給で長時間労働の医師の仕事があまり好きではなかったことー。率直なのか、自虐的なのか、時には判断がつかない彼の語り口に、私は幾度も笑った。だが後から考えれば、医師としてではなく20代の若者として向き合う夥しい死の現実について、彼は明確に言葉にしてくれなかったと思う。「軍の暴力を止めるのは自分たち世代の責任」と感じ、武装闘争を決意した若者の胸の内は、単純な言葉では表せないだろう。
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
2021年2月1日午前4時ごろ。ヤンゴンの国立病院の産婦人科で当直をしていたネイトゥレインは、上司に携帯電話をかけようとしていた。急患で運ばれた妊婦に帝王切開が必要で、上司に知らせる必要があったのだ。だが携帯電話の電波が消えている。何かあったのかもしれないと思いながら、病院内の上司の部屋まで走った。
手術が無事に終了し、帰宅しようと自分の車に乗ったのは午前9時ごろだった。「国軍が全権を掌握した」。ラジオをつけると、そんな情報が流れた。どういうことなのか。疲れ切っていて深く考える余裕がなかった。休息を取った後、生まれ育った村を巡回する国軍兵士の姿を思い出した。銃を携えた威張り腐った態度。あんな奴らの下で生きていくのか。すべてが終わったような気がした。
病院には1988年の民主化要求運動に参加した年配の医師がいた。僕たちは何ができるのでしょうか。そう聞いてみた。
「経験から言おう。平和デモで抗議してもどうにもならない」
1988年の運動は、武力弾圧で数千人の大学生や僧侶らが殺害され終わった。多数が殺されたという恐ろしい噂が村に伝わったと、母から聞いたことがあった。
「国軍に勝つためには、武力闘争しかない。やるかどうかは、君たちの世代が決めることだ」
「武装勢力とのコネクションはありますか?」
「残念ながら、ない」
上司の答えにもネイトゥレインは落胆はしなかった。興味を引かれて聞いただけで、武力闘争を考えた訳ではなかったからだ。軍事政権が「民政移管」を始めた2011年、彼はまだ15歳。民主化が進み外国企業が次々と入り、社会がスピードをつけて変化していく中で大学時代を過ごし、政治に興味を抱く機会なんてなかった。
■僕らがやっていることはクレージーじゃない
「抗議デモをしよう」。クーデターから2日が過ぎた2月3日、友達2人が声を掛けてきた。無下に断れず、ついて行った。とは言うものの、デモは初めてで、どうやったらいいのか分からない。勤務先の病院に近い、ヤンゴン郊外の地区の中学校前に行った。向かいに市場があり、多くの市民の目に留まるんじゃないかと思ったからだ。「われわれは民主主義を求める」と書いた白い紙を持ち、3人で立った。異星人でも見るような目を投げかけ、人々が通り過ぎた。
この日は2時間ほどで帰ったが、翌日は6人で同じ場所に立った。今度は、次々と人が集まってきた。30代以上の「シニア」ばかりで同世代はいなかったが、すぐに200人ほどになった。それから、日を追うごとに参加者は増大した。スローガンを書いた紙は、横断幕に変わった。「お前、何やってんだ」と言っていた病院の同僚たちもやって来た。2月11日には、2千人近くにまで膨れ上がった。
「僕たちがやっていることはクレージーじゃない、正しいんだ」。集まった人々を見て、抗議デモには大きな意義がある、とネイトゥレインは確信した。
教師の男性が提案した。
「君はみんなの前でスピーチをするべきだ。医師は尊敬されている。皆が耳を傾けるはずだ」
ヤンゴンでは、国立病院の医療従事者たちが抵抗を意味する3本指サインを掲げ、職場をボイコットする「市民不服従運動」(CDM)を発表して、大きな反響を呼んでいた。
「演説なんかやったことありません」
躊躇したが、「原稿を書いてやるから」と説得された。
渡された原稿を何回も練習して暗記し、数日後に数千人を前に壇上に立った。頭の中が真っ白になった。どう始めたのかよく覚えていない。
「1988年の民主化運動は勝てなかった。その子どもであるわれわれは、さらに抑圧にさらされている」
そう叫ぶと、聴衆から一斉に拍手が沸いた。
「今、戦わなければならない」
熱気に鼓舞されて思わず拳を振り上げた。人々はこんな言葉を欲しているんだと思った。
それからは毎日、演説をした。教育システムや医療体制の遅れを指摘した言葉も自分で付け加えて、5回目をやったところで演説がすっかり好きになっていた。
年配者たちは過去の経験に基づいて若者達にアドバイスをした。「同じ所に立っているだけじゃ聴衆が飽きてしまう」というのもその一つ。ネイトゥレインは先頭に立って、シュプレヒコールを上げながらデモ行進した。
「われわれは民主主義を求める」「われわれの大統領を釈放せよ」
声が枯れると、LGBTの友人にマイクを渡した。甲高くよく通る友人の声は遠くまで響き、評判になったんだ。警察は遠くから見ているだけで、どうしたらいいのか、分からないようだった。
2月22日、民主派のネットメディアなどが呼び掛け、全国で一斉に民主化要求デモが行われた。参加者は全国で数百万に上ったといわれる。ネイトゥレインたちが率いたデモは、参加者の列が何キロにも伸びた。
われわれは勝利する。誰もがそう思っていた。
■武力弾圧始まる
デモの光景は軍事政権トップの予測を上回り、恐怖となったに違いない。警察がゴム弾と催涙弾を使い始め、3月には警察の後ろに控えていた国軍が、銃を市民に向けた。
3月8日、午前。イーストヤンゴン大学前に軍車両が3台、警察車両が3台、バリケードをつくった。若者たちが抗議運動に集まるに連れ、さらに到着した4台の軍車両が催涙弾を構内に向け撃ち込んだ。
デモ隊の中にいたネイトゥレインが、立ち上る煙の中で口と鼻を押さえ周囲を見渡すと、仲間はすでに逃走したのか姿がない。警察官が近づいて来た警察官と激しい揉み合いとなり、着ていたシャツのボタンが飛んだ。警察官を押し倒して走り出した。近くの民家の間を逃げ回り、目についた用水路に飛び込んだ。底に溜まっていた水で、焼けるように痛かった目を洗い、そのまま軍や警察がいなくなる夜まで身を潜めていた。
「つかまったかと思ったよ」
連絡した友人たちはほっとしていた。軍と警察は運動のリーダーらを探し回っているー。そんな情報が回ってきたが、抗議運動をやめるつもりはなかった。寝場所を変えたりしながら、仲間たちと4人でギターを弾いて民主化を求める歌も歌った。
「見せしめ」のように国軍がデモ参加者を射殺する事件がヤンゴンや中部マンダレーで起きていた。だが国軍の狙いと反対に、事件は若者たちをさらに抵抗へと駆り立て、一部の若者たちがスリングショットや花火、火炎瓶で対抗した。
3月下旬、ヤンゴン近郊のタンリン。ネイトゥレインが初めて国軍の発砲を経験したデモだった。実弾を使うとは想像していなかったが、近くに病院があったのは幸運だった。大混乱の中、ネイトゥレインは左脇に被弾した男性の傷口をシャツで縛り、足首を撃たれた男性が抵抗を示す3本指サインを掲げてストレッチャーに載せられるのを見送った。弾丸が腹部をかすめた男性は、大量に出血していた。
「痛みに耐えられるか」
男性が「大丈夫だ」と答えるのを確認してから、横断幕作成用に持っていた大型ホッチキスで傷口の20個所を留めた。
■暴力を止めるためには
ネイトゥレインは政治にも武装闘争にも、元々は興味がなかったのだ。だけど、国軍や警察が市民に実弾を浴びせ、兵士たちが医師の手術衣を踏みつけているのを見て、気持ちが変わった。平和デモが武力で弾圧されても、国際社会からは助けが来ないのだ。
「国軍の暴力を止めるには、武器で対抗するしかない。僕たちに何ができるかを見せなければ」。そう思うようになった。「平和デモでは勝てない」という上司の言葉は頭から消えなかったのかもしれない。
匿ってくれた僧院は、僧院の名前が書かれた車を使わせてくれた。国軍の目を掻い潜りながら活動を続ける中で、国民民主連盟(NLD)のピョーゼヤートー元議員(7月下旬に死刑執行)と知り合った。彼の下で10日間を過ごし、エアガンの撃ち方や、大きな爆発音を立てる音響爆弾の作り方も習った。音響爆弾は殺傷能力はないが、大きな爆発音を立てて「我々は戦う」とアピールすることが狙いだった。時計を付けた時限爆弾なのだが、うまく作動しない。何度かトライし、ある時、爆弾を設置した後、近くに監視カメラが仕掛けてあることに気づいた。もう遅い。録画されているはずだ。逃げるしかなかった。
「こっちに来るか?医者の君には軍事訓練は厳しいが」
カレン民族同盟(KNU)の友人が言ってくれた。躊躇している時間はそれほどなかった。車を運転してタイ国境近くの町レイケイコーに着くと、KNUの友人が迎えに来てくれていた。
「これからどうしたいか?KNUに参加してもいいし、市民不服従運動(CDM)の活動家として避難民キャンプで生活してもいい。われわれには医療の知識がある者が足りないから、医療活動をしてくれるとありがたい」。
KNU司令官に聞かれ、ネイトゥレインはキッパリと答えた。
「武器を取って戦いたい。軍事訓練を受けたら、ヤンゴンに戻って都市ゲリラ活動をしたいんだ」
そうは言ったものの、KNU支配地域には、マラリアで苦しんでいる兵士や住民が多数いて、医療従事者が必要だった。ネイトゥレインは治療薬や医療道具を担ぎ、雨のジャングルの泥道を7時間も歩いて到着した村で、患者をみた。村人を集めて医療や応急手当の基礎を教えた。KNUで衛生兵を育てるコースの講師も開いた。その合間に軍事訓練も受け、7、8キロのザックを背負って丘を駆け登り、マラリア治療が必要な村まで走った。
■彼女が国軍兵士と
そんなある日、友人の言葉に打ちのめされた。
「あの子、国軍兵士と結婚したってよ」
6年前から付き合っていた看護師のガールフレンドのことだった。彼女にせがまれ、右胸に名前まで彫っていた。婚約指輪を贈った日は、たまたまクーデターの日と重なってしまったけれど、デモの日々を彼女は共に歩いた。KNU支配地域に来てからも連絡を取り合い、喧嘩をしたり仲直りをしたりしていた。
「結婚したい相手ができたら知らせてくれよな」
そう言ったこともあったけれど、自分達はいつか一緒になるのだろうと思っていた。数日前、彼女と連絡がつかなくなった時は、少し不安になった。
他の男ならまだしも、どうして国軍兵士と? いくら考えても分からない。カレン人の強い酒を毎日ら飲みまくった。
「お前、そんなことやってたら死ぬぞ」と周囲から諌められた。32歳の歌手ネイローンが「いいことを教えてやる」とギターの弾き方と歌の作り方を教えてくれた。
これが救いになった。2人は共に、数多くの歌を作った。
「この痛みから/僕を救い出して」
ネイトゥレインがギターを弾きながら歌い、サビを仲間たちと合唱する動画がある。傷心の歌は特に人気だったようだ。愛する人と離れてジャングルで戦う10代、20代の若者たちは、彼の歌に自らを投影していたのだろう。
右胸の彼女の名前の上に、新たなタトゥーを彫ったが、スマホにある彼女の写真は削除していない。
「もう痛みには慣れました」。写真を見せてくれるよう頼むと、少し照れてそう言い、探し出してくれた。薔薇色のロンジー(民族衣装)に白いトップスの、愛らしい女性がスクリーンの中で微笑んでいた。
■家族のような仲間たちの死
2021年12月、ネイトゥレインは初めて戦闘に出た。絶大な信頼を持つカレン民族同盟(KNU)司令官をトップに据え、国民防衛隊(PDF)とKNU兵士で編成する「コブラ縦隊」の一員にもなった。半年ほどの間に参加した戦闘は5回に上る。マラリアに7回感染し、1度は意識不明に陥りタイ側の病院に入院した。そんな時でさえ、仲間が所属する大隊が苦戦を強いられていると聞いて病院を抜け出し、戦闘に参加した。KNUのスナイパーに教えられ、狙撃銃で約800メートル先の国軍兵士を撃った。
国軍から追われていたネイトゥレインは、家族に危険が及ばないように、公には「死亡した」ことにしている。家族は生存を知っているが、盗聴やインターネットチェックを警戒して、連絡を絶っている。そんな彼の家族は今、ジャングルで共に戦う仲間たちなのだ。親しい仲間が戦闘で死亡してから、死は怖くなくなった。死ぬかもしれない、という不安より、「戦いたい」という意志が勝るようになったという。
別れの日は突然に来ることは、それぞれが覚悟しているだろう。それでも、家族同然の仲間たちとの別れは辛い。そのうちの1人がある日、「僕のために歌を作ってくれないか」と言った。
「いいよ」。ネイトゥレインは気軽に承諾した。
一週間後、その仲間はジャングルで死んだ。遺体を入れた木箱に国民防衛隊(PDF)旗を置き、荼毘に付す葬儀が行われた。
「彼は自分の死が近いと予感していたと思う」。ネイトゥレインが約束を守り作った歌には、独裁政権を倒すためには「他に方法がない」と武器を取った若者たちの、胸の底にある切ない思いがあった。
さようなら、母さん
さようなら、愛しい人
さようなら、美しい山々
さようなら、仲間たち
僕は全力を尽くした
愛する国のために
愛する人たちのために
この体を捧げた
でもさよならを告げるのは、なんて辛いんだろう
(了)