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【戦国こぼれ話】織田信長が実力主義から親族優遇策に転換したので、明智光秀は謀反を起こしたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長が実力主義から親族優遇策に転換したので、明智光秀は謀反を起こしたという。(提供:アフロ)

 5月8日(土)に放映されたTBS「世界ふしぎ発見」(本能寺の変 解き明かされる新たな真実)を楽しく拝見した。興味深かったのは、織田信長が実力主義から親族優遇策に転換したので、明智光秀は謀反を起こしたという説だ。今回は、この説を考えてみよう。

■実力主義だった織田信長の人材登用

 天正元年(1573)、織田信長は室町幕府の最後の将軍・足利義昭と決裂すると、各地の反信長の勢力との戦いに臨んだ。信長を支えたのが有能な重臣たちである。

 信長の家臣は父祖以来の譜代の家臣もいれば、新たに登用された家臣もいた。これは信長だけでなく、大名が版図を拡大した結果、家臣の数が増えるのは宿命でもあった。

 信長の家臣団で特筆されるのは、その顔触れである。たとえば、明智光秀は永禄11年(1568)10月に信長が上洛した際から史料上で確認できる。しかし、それ以前の光秀の前半生は不明であり、その出自すら明らかではない(土岐氏の庶流であるという説は二次史料に書かれたもの)。

 摂津の支配を任され、のちに信長に反旗を翻した荒木村重は、出自について諸説あり、もともとは池田勝正の家臣だった。その才覚が信長に見込まれ、仕えることになった武将だ。

 信長の死後、天下人に名乗りを挙げた羽柴(豊臣)秀吉も前半生は明らかではなく、もとは農民の子であったといわれている。秀吉が高い能力を有していた逸話は事欠かず、信長はそれゆえに登用した。

 信長は出自や身分にこだわらず人材を登用したが、無能な人間には冷たかった。天正8年(1580)、信長は10年にわたって抗争を繰り広げた本願寺と和睦したが、和睦後には厳しい粛清を行った。

 戦後、本願寺攻めを担当した佐久間信盛・信栄父子は、信長から折檻状を突きつけられ、高野山へ追放された。信長の折檻状には、信盛・信栄父子の本願寺攻めにおける不備が列挙されていたのだ。

 つまり、信長の方針は信賞必罰だったことがわかる。

■信長の親族

 では、信長は子や親族とどうかかわったのだろうか。信長には、長男・信忠、次男・信雄、三男・信孝らの子供たちがいた。信長にとって、もっとも信頼できる存在だった。

 長男・信忠は、信長の後継者候補の最有力だった。天正4年(1576)、信長は信忠に織田家の家督を譲り、美濃東部と尾張国の一部を与えた。次男・信雄は北伊勢侵攻後、北畠家の養子となった。同じく三男・信孝も、北伊勢侵攻後に神戸家の養子となった。二人は伊勢支配の要だったといえよう。

 信長の子供3人に加えて、弟の信包も重要な存在だった。彼ら織田一門衆は、『信長公記』に連枝衆と記されている。

 以後、信雄、信孝、信包(信長の弟)は信長、信忠を支えるべく、織田家の連枝衆として各地を転戦したのである。

■信長は中国侵攻を企てていたのか

 ところで、「世界ふしぎ発見」ではイエズス会の史料に基づき、信長が中国侵攻を企てていたとの説を披露した。これは、フロイスの『日本史』にも書かれていることだ。しかし、日本側の史料には、一切記録がないことに注意すべきだろう。

 「世界ふしぎ発見」では、信長が中国に侵攻した際、日本の支配は子の信忠らに任されるだろうと解説していた。それは、これまでの実力主義を捨て、織田家の親族を優遇する政策だったため、反発した光秀が信長の追討を決意したのではないかと指摘した。ユニークな説である。

■いくつかの疑問

 しかし、この説にはいくつかの疑問が思い浮かぶ。そもそも光秀がどこで、中国侵攻を知ったのかということである。もう一つは、信長は死の直前まで各地の反信長勢力と戦っていたのに、いつ中国侵攻が実現するのかわからないということだ。また、信長が多大なリスクをかけて、中国に攻め込む目的もわからない。

 加えて、いつ実現するかもわからない中国侵攻計画に対して、当時、老人だった光秀がそんなに心配する必要があったのかという疑問が残る。ましてや、中国征服が成功するのかさえ分からない。重要なことだが、当時の光秀の心理状況を示す史料はない。

 ついでにいえば、信長が親族である我が子を優遇するのは当たり前のことである。光秀ら家臣は、織田体制の枠組みの中で出世競争をせざるを得なかったのである。そして、当時の光秀は信長から厚遇されており、別に心配事はなかったように思える。

 近年、信長の中国侵攻については、日本でのキリスト教布教に苦戦していたフロイスがイエズス会への弁明として、信長が日本を統一後に中国に攻め込み、一気にキリスト教布教を進めることを匂わせるために書いたのではないかとの指摘もある。

 信長の中国侵攻が光秀が謀反を引き起こす原因になったとのことだが、上に示したような素朴な疑問がどうしても残る。また、信長の中国侵攻計画が日本側の史料で裏付けられないのも、非常に気に掛かるところだ。果たして、皆さんはどうお考えだろうか?

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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