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初めての波の高さの予報 有義波高の波浪予報を使った史上最大の作戦・ノルマンディ上陸作戦から80年

饒村曜気象予報士
ノルマンディ上陸作戦から80年(写真:ロイター/アフロ)

波の高さは有義波高で

 波浪の予報は天気の予報より難しく、第二次世界大戦中の上陸作戦のために行われたのが最初とされています。

 アメリカ海軍は、複雑な波の状況を、有義波高という代表値を作って予報するという方法を考え、最初の実用的な波浪予報を作り上げました。

 波が発達するには強い風が必要ですが、波は風が吹いてすぐには高くなりません。波は、ほぼ一定の風が吹いている時間(吹続時間)が長いほど、ほぼ一定の風が吹いている距離(吹送距離)が長いほど発達します。また、波の発生初期は波の速度が風速より遅いので風のエネルギーが波に伝わりますが、波が発達して速度が速くなると大気は波の抵抗として働きますので波はエネルギーを失います。

 これらのことから、天気図で地上付近の大気の状態が予想できると、風速・吹続時間・吹送距離などを求めることができ、有義波高を求めることができるという方法です。

 そして、その波浪予報が最初に使われたのが、今から80年前の昭和19年(1944年)6月6日に行われた史上最大の作戦ともいわれるノルマンディ上陸作戦です。

 この方法は、戦時中であることから秘匿されていましたが、戦後になって公開され(Sverdrup and Munk, 1947)、多くの研究者によって改良されて現在の波浪予報の基礎となっています。

 この有義波高は、ある地点で一定時間(例えば20分間)に観測される波のうち、高いほうから順に3分の1の個数までの波について平均した波高です。

 例えば、波が9個観測されたとき、高い順に3.1メートル、2.9メートル、2.4メートル、2.3メートル、2.1メートル、2.0メートル、1.9メートル、1.7メートル、1.5メートルとすると、波の高いほうの3つの平均、2.8メートルが有義波高になります。有義波高は、一番高い波(この場合は3.1メートル)より、常に少し小さい値です。

 波の中には、有義波高より高いものがあり、注意が必要ですが、有義波高は目視観測による波高に近いと言われ、予想しやすい波高であることから、波に関する情報は、特に断らない限り、有義波高の情報です。

図1 波浪分布の例(令和元年房総半島台風来襲時の9月8日21時の波浪分布)
図1 波浪分布の例(令和元年房総半島台風来襲時の9月8日21時の波浪分布)

 図1は、千葉県を中心に大きな暴風被害が発生した、令和元年(2019年)の房総半島台風が襲来したときの波浪分布です。伊豆半島の南に7メートルの表示がありますが、これは、有義波高が7メートルという意味で、稀には7メートルよりも高い波がある海域です。

ノルマンディ上陸作戦

 ノルマンディ上陸作戦は、第二次世界大戦中の昭和19年(1944年)6月6日に連合軍によって行われた作戦で、ヨーロッパ戦線の転機となりました。

 この作戦は、ドイツ軍が占拠していた北フランス・コタンタン半島のノルマンディ海岸に上陸し、パリ解放までの作戦ですが、作戦当日だけで約15万人、パリ解放までに200万人の連合国の兵員がドーバー海峡を渡っており、現在に至るまで歴史上最大規模の上陸作戦です(図2)。

図2 連合軍のノルマンディ敵前上陸作戦概念図
図2 連合軍のノルマンディ敵前上陸作戦概念図

 当初、ノルマンディ上陸作戦は5月に予定されていたのですが、地中海にあった多量の上陸用舟艇を調達することができる6月に変更されました。

 上陸作戦では、干潮時は上陸用舟艇から海岸線のドイツ軍トーチカまでの距離が長くなって十字砲火にさらされる時間が長くなるので避け、満潮時はドイツ軍のしかけた防塞が見えなくなることから上陸用舟艇が引っかかって損傷する可能性が高くなるので避け、作戦時にちょうどよい潮位となる日が選ばれました。

 そして、上陸時にドイツ軍の背後に空てい部隊を落下させるため月明かりのある日を考えると、6月5日から7日(満月の日)までの3日間しか上陸作戦に適した日はありませんでした。

 この3日間を逸すると、次の好機は1か月後で、その間にドイツ軍の新兵器、ジェット機やVロケットと呼ばれるミサイル攻撃で、連合国側は不利になると考えられました。

 加えて、上陸作戦ですから波浪が穏やかで、優勢な連合国空軍が十分に活動できるような天気や視程が良いという条件も必要でしたが、ヨーロッパ中部の天候は、日本とは違って梅雨がなく、春から夏にかけては晴れの日が多いという特徴があることから、6月5日が選ばれたのです。

上陸作戦を1日延期

 昭和19年(1944年)は、例年とは違い、6月4日になると発達した低気圧の影響でイギリスやフランスは大荒れの天気となっています。

 このため、6月4日日曜夜の9時半、イギリス南部のポーツマスにあった連合国遠征軍総司令部では決行か延期かの断をくだす首脳会議が開催されています。

 連合国遠征軍総司令部は、連合国の海軍、空軍、地上軍を統括していました。

 主任気象将校で、英軍のスタッグ大佐は、天気推移と予報を説明したあと、居並ぶ将軍たちの質問に答えるかたちで、1日延期し、6月6日の火曜日にするよう意見具申を行っています。

 これを受けて最高責任者のアイゼンハワー将軍(後のアメリカ大統領)が即断、「1日延期しよう」という鶴の一声で、史上最大の作戦が6月6日に決まっています。

図3 昭和19年(1944年)6月6日イギリス時間12時30分の地上天気図(日本時間6月6日21時30分)
図3 昭和19年(1944年)6月6日イギリス時間12時30分の地上天気図(日本時間6月6日21時30分)

 図3は、アメリカ気象局(U.S.Weather Bureau)が昭和30年(1955年)に作成した、当時の天気図をもとに筆者が作成したものですが、ノルマンディ上陸作戦時は、発達した低気圧がイギリス北部にあり、低気圧に伴う前線がスペインからイタリア北部を通ってスカンジナビア半島へのびています。

 この前線は、6月4日は低気圧の中心からのびていたのですが、6月5日になると低気圧の中心から前線が離れ、ノルマンディ海岸付近を通過しています。

 このため、イギリスとフランスの間の海峡は大荒れで、ノルマンディ海岸には上陸できない状況でした。

 しかし、6月6日は低気圧が少し弱まり、ノルマンディ付近は、前線が通過後のまだ波が高い状態でしたが、満潮の3時間前に上陸作戦が開始できました。

 当時、ドイツも同様な天気予報を行っていますが、その予報は分散していた各級司令部の首脳に電話かテレックスで伝えられました。ドイツは、連合国遠征軍総司令部のような指揮系統が一つの組織ではなく、指揮系統は、海軍、空軍、西部野戦軍(このうち、英仏海峡部に展開していたのがB軍集団)に分かれていました。

 パリにあったドイツ空軍司令部も、かなりの荒天になる予報から、連合軍の上陸はないとして防空課の全士官に日曜休暇をとらせています。

 当時のアメリカとドイツは、世界の気象学の双璧であり、天気予報の精度は似たりよったりと言われていますが、波の予報ができた分だけアメリカが優れていました。

 また、「荒れていても作戦ができる荒れ方である」と気象担当者から予報だけでなくその背景となる天気の推移を直接聞いて判断した連合軍首脳と、分散していた各級司令部で、予報文だけを受け取り、その背景にあるものが伝わらない中で判断したドイツ軍首脳との差が大きかったという見方もあります。

 ちなみに、ドイツ軍の海峡守備担当B軍集団の最高責任者・司令官ロンメル元帥(北アフリカ戦線での活躍で「砂漠の狐」と呼ばれた名将)は、ヒットラー総統を訪問するためドイツに出張中でした。

図1の出典:気象庁ホームページ。

図2、図3の出典:筆者作成。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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