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石田三成は大変な倹約家だったが、人材にはカネを惜しまなかったという話は本当か

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
龍潭寺の石田三成像。(写真:イメージマート)

 今回の「どうする家康」では、石田三成が登場し、徳川家康と面会を果たした。三成には少なからず逸話があり、ケチだったといわれている。その反面、有能な人材を確保するためには、お金を惜しまなかったと伝わる。それは事実なのか考えることにしよう。

 江戸時代に成立した『老人雑話』には、三成の日頃の心掛けが記されている。それは「奉公人は主君から与えられたものを使い過ぎるのはよくない。とはいえ、残すのは盗人である。また、使い過ぎて借金をするのは愚人である」というものだ。

 ちなみに佐和山城は非常に粗末で、壁はあら壁、居室は板張りであったと伝わる。つまり、お金を適切に使う重要性を説いたのであろうが、大名が倹約家だったというのはよくある話で、三成が節約していたという確かな史料は確認できない。にわかに信じるわけにはいかないだろう。

 三成は、有能な人材を招聘することに金を惜しまなかったという。有名な例では、三成が4万石しか領していないのに、島左近(清興)を1万5千石で召し抱え、秀吉が感嘆したとの逸話がある(『常山紀談』)。秀吉は三成に対して、「それくらい与えなければ、左近を召し抱えることはできないだろう」と述べたと伝わっている。

 その後、三成は18万石に加増されたので、左近にも加増しようと考えたが、左近は「もう禄は十分なので、他の者に与えてほしい」と辞退したという。

「三成に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と 佐和山の城」という歌は、紹介した逸話を反映したものである。しかし、一連の逸話には年代を含めて種々の矛盾があり、今となっては誤りであると指摘されている。

 文禄4年(1595)2月に蒲生氏郷が亡くなると、三成は牢人生活を送っていた氏郷配下の蒲生郷舎を1万5千石で召し抱えたという。三成の知行を考慮すれば、1万5千石というのは破格である。

 左近も郷舎も慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦で、三成のために戦ったのだから、決して無駄な出費とは言えないようである。なお、左近は戦死し、のちに郷舎は蒲生家に帰参した。

 三成には多くの逸話があるが、倹約家だったこと、人材には金を惜しまなかったことは、やや疑わしい面がある。それは、三成の人物像が良くなるように描くため、敢えて創作された可能性が高いと言える。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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