オークラフレンチの軌跡からホテルオークラの奇跡をなぞる
日本におけるフランス料理の礎
日本における近代的なフランス料理の始まりと言えば、1890年にオープンした帝国ホテルがまず挙げられると思いますが、帝国ホテルと同じように、日本のフランス料理に大きく寄与したホテルはどこかご存知でしょうか?
それは、国内外のVIPがよく宿泊することもでも有名な、1962年にオープンしたホテルオークラです。
ホテルオークラは<食のオークラ>と称されるほど食に対する評価が高く、総料理長の小野正吉氏は、「【グルメ/快挙】何故ザ・プリンス パークタワー東京「ブリーズヴェール」は料理コンクールに強いのか?」でもご紹介した「エスコフィエ・フランス料理コンクール」を運営する「日本エスコフィエ協会」を設立して初代会長を務めるなど、日本におけるフランス料理の発展に寄与した料理人なのです。
正統なオークラフレンチの流れを汲むホテルオークラ東京「ラ・ベル・エポック」で「オークラフレンチの軌跡」フェアが行われています。2月14日~28日は1970年代を、3月1日~12日(ランチは14日まで)は1980年代をテーマとし、そして3月13日と14日にはガラディナーで締め括るというものです。
このような時代を超えた壮大なフェア行われている背景は何でしょうか。
お客さまへの恩返し
営業企画部 部長 服部崇氏は「ホテルオークラ東京の本館は2019年春の新装へ向けて、2015年9月から建て替えを行う。たくさんのお客さまにご愛顧いただいたので、感謝の気持ちと恩返しとして、『オークラフレンチの軌跡』をご提供することになった」と述べます。
本館はデザイン性と希少性が高く評価されており、国内外の有名人からも建て替え反対運動が起こるなど根強く支持されています。このフェアがどのようにして、恩返しにつながるのでしょうか。
服部氏は「帝国ホテルの村上信夫氏はフランス料理を日本全国へと広げ、ホテルオークラ東京の小野はフランス料理を徹底的に追求した。方向性は違うが、共にフランス料理が日本に根ざすよう尽力した」と振り返り、「お客さまと一緒にオークラフレンチの歴史を振り返っていくことで、懐かしんでいただいたり、今の料理とを比較して楽しんでいただける。私達も礎を再確認することによって新たな発見ができ、よりよい料理をご提供できるようになる」と丁寧に説明します。
続けて「小野はフランス料理の鬼と呼ばれるほどストイックな料理人で、いかに本物のフランス料理を作れるかにこだわり、ソースの色が少し違うだけで作り直しを命じた。しかし、深い哲学を持ち、自分にも極めて厳しかったので、腕はよいがプライドの高い料理人をまとめ上げ、オークラフレンチの底力を上げることができた」と説明します。
確かに「ホテルオークラ総料理長 小野正吉―フランス料理の鬼と呼ばれた男」という書籍が刊行されるなど、小野氏のフランス料理に対する峻厳な姿勢は広く知れ渡っています。
営業企画部 広報課 荒井郁子氏は「常にメモを取ることでも有名で、レシピはフランス語で細かく正確に記されている。このレシピがあったからこそ、今回のフェアで当時の料理を忠実に再現できた。」と述べ、服部氏は「レシピには絵も描かれていて非常に分かり易い。料理人は絵心がなければならないとよく言っていた」と補足します。
伝統にこだわる
では、オークラフレンチは、どういったところにこだわっているのでしょうか。
服部氏は「伝統を非常に重んじている。例えば、フランス料理で重要となるコンソメは、伝統の味を絶対に変えてはならない。そのため、時間を短縮できる圧力鍋ではなく、昔ながらの平釜で作り、一杯一杯レードルですくって集める」、さらには「流通が整っていなかった時代に、肉の臭みをとるために使っていたエストラゴンでさえ、今後も使う使わないで議論している」と例を挙げます。
このようなこだわりに加えて、「フランス料理人の実力を高めるために、オープンした1960年代からアンドレ・ルコント氏、ジャン・プレイ氏、ロベルト・カイヨー氏などを招いてきた」と回想し、「小野が総料理長に就任した1969年以降も同様で、ジョエル・ロブション氏、ジャック・ボリー氏など一時代を築いた料理人を招いた」と、当時ではまだ難しかった海外の一流シェフ招聘を行ってきたとします。
こういった偉大な料理人たちによってオークラフレンチが育まれてきたことを鑑みれば、実直とも言えるほどに伝統を重んじるのは理解できることでしょう。
オークラフレンチの礎は築かれていた
今回のフェアについて尋ねると、ラ・ベル・エポック シェフ 山本克哉氏に「1970年代にはもうほとんどオークラフレンチの礎は築かれていた。レシピも完璧なので再現することに苦労はしていない。ブイヨンやフォン ド ヴォーの作り方は現在も同じ」と伝統に忠実であるとし、「当時から皿の縁を使うなどプレゼンテーションにもこだわっている。唯一アレンジしたのはピストゥースープで、現代風に野菜をたっぷりと使った」と一つ一つ説明します。
新たな発見はあったかと訊くと「スライスしたアーモンドやパイ包みの焼き色ひとつとっても、どうしてそのような色になるまで火をかける必要があるかなど、改めて振り返ることができたので、非常に有意義であった」と述べます。
蘇るオークラスイーツの世界
実は今回、フレンチだけではなく、「蘇るオークラスイーツの世界」としてスイーツの軌跡も辿っています。
服部氏は「2011年にお子さまでも安心して食べていただける健康でおいしいスイーツのフェアを展開し、非常に喜んでいただけた。こういったフェアのリクエストも多かったので、今度は開業当初からのスイーツを楽しんでいただけたらと考えた」と話します。
製菓課 課長 中村和史氏は「時代を4ステージに分けて、スイーツをご提供しているので、味や見た目の移り変わりを楽しんでいただきたい。昔のスイーツは小麦粉の味や甘味がしっかりとしているが、現代に近付いていくにつれてムースが多くなり、口溶けがよくなる。彩りも鮮やかになり、フォルムも洗練されてくる」と生き生きと話します。
新たな発見はあったかと訊くと「伝統のスイーツを回顧することで、現代の味や製法しか知らない若いパティシエにとってよい勉強になる。これが成長につながって、いずれお客さまに恩返しできる」と真摯に語ります。
軌跡から奇跡へ
ホテルオークラが<食のオークラ>と言われているほど、食を高く評価されていることについて、服部氏は「創設者の大倉喜七郎は芸術や料理を重んじる人物だったので、創業時からずっとその意志を受け継いできた」と説明します。
大倉喜七郎氏は<最後の男爵>と呼ばれた大倉財閥2代目総帥であり、父親である大倉財閥創始者の大倉喜八郎氏から帝国ホテルの会長を継ぎました。しかし、日本における風向きが変わり、公職追放や華族剥奪などの憂き目に遭って帝国ホテルからも離れることになり、「帝国ホテルを超えるホテル」として設立したのが、このホテルオークラだったのです。
大倉喜七郎氏の想いが込められたホテルオークラ東京は本館を建て替えて別館だけで営業を行いますが、これは非常に稀なことであり、他のホテルで同じことは簡単にできません。というのも通常、本館と別館それぞれに機能が分かれているので、片館だけが残ったとしても機能が不足してしまうからですが、ホテルオークラ東京に関しては本館と別館のどちらかだけでも営業できるようにと、両館それぞれにフロントやレストランから、美容室や写真室、アーケードに至るまで、全ての施設を備えているのです。
2019年春に築50年を超える建物から高さ200メートルの高層ビルへと新しく生まれ変わるホテルオークラ東京が、片肺を失ってもなお華麗に力強く飛び続けていられるのは、奇跡の復活を遂げたホテル経営者である大倉喜七郎氏の先見性はもとより魂が込められているからだと感じられてなりません。
情報
詳しくは公式サイトをご確認ください。
参考
レストラン図鑑にもラ・ベル・エポックが詳しく掲載されていますので、ご参考にどうぞ。