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【深読み「鎌倉殿の13人」】命令通り源義高を討ち、理不尽な殺され方をした藤内光澄とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大姫は将来を約束した源義高を殺されたので、病に罹ってしまった。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第17回では、源頼朝の命令通り源義高を討ち、理不尽な殺され方をした藤内光澄が注目された。いかなる人物だったのか、詳しく掘り下げてみよう。

■源義高の討伐

 寿永3年(1184)1月、木曽義仲は源義経らの軍勢に敗れ、粟津(滋賀県大津市)で討たれた。義仲は頼朝との良好な関係を保つため、嫡男の義高を人質(頼朝の娘・大姫の婿)として送っていた。しかし、義仲が討たれたことで両者の関係破綻し、義高の身には危険が迫っていた。

 詳細は、「【深読み「鎌倉殿の13人」】大姫も涙! 人質となった木曽義仲の子・義高の最期」のとおりであるが、義高は故郷の信濃国を目指して逃亡する途中の同年4月26日、藤内光澄に討たれた。光澄は、御家人の堀親家の配下に属していた。

 ところが、義高の死を知った許嫁の大姫は、嘆き悲しみ病となった。母の北条政子は怒り狂い、頼朝に光澄の処分を強く迫った。その結果、光澄は殺害され、同年6月27日に梟首されたのである。

 光澄は、頼朝の命に従って義高を討ったのだから、誠に理不尽な話である。では、いったい光澄とは、いかなる人物だったのだろうか。

■謎が多い光澄

 まず、主の堀親家について述べておこう。親家は生年不詳。伊豆国の豪族である。治承4年(1180)8月に頼朝が挙兵すると、親家はただちに付き従い、各地を転戦した。

 ところが、一方の光澄については、生年はもちろんのこと、その生涯についてはまったくの不詳である。父母の名も出身地もわからない。親家が伊豆国の豪族なのだから、伊豆国の出身なのは疑いないだろう。

 姓の藤内とは、内舎人に任じられた藤原氏の呼称である。内舎人とは天皇の身辺警護にあたる職務で、21歳以上の四位以下、五位以上の子弟から選ばれたという。むろん、光澄の藤内は単なる自称であって、内舎人とは関係ないだろう。

 『吾妻鏡』を読む限り、義高討伐の命が下されたので、光澄も従ったにすぎない。結果、義高を発見したので討ち、その首を持参したのである。この事実は伏せられていたが、やがて大姫の耳に入ったのである。

 その後、頼朝は政子に押し切られる形で、光澄を討った。政子は義高を討つことについて、事前に相談がなかったことをなじったという。これもまた、妙な話である。あまりに光澄が気の毒である。 

■むすび

 頼朝が義高を討つよう命じたのは、自身の意思だった。しかし、大姫の具合が悪くなることなど、まったく予想すらしなかった。政子が心配するは親として当然かもしれないが、その罪は光澄に転嫁された。あまりに身勝手な話であり、ドラマで光澄が「なぜだ!」と叫ぶのはよく理解できる。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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