【九州三国志】世子時代の波乱万丈な日々!家督をめぐる謀略と相良家の未来
永正10年(1513年)、頼興の長男として上村城に生を受けた籐五郎頼重。
相良氏分家として誇り高き上村家に生まれた彼は、幼少の頃からその血統ゆえに家中で注目を浴びる存在でした。
しかし、彼の人生は平穏とは無縁で、激動の相良宗家をめぐる争乱の渦中に巻き込まれていくのです。
1524年、大永の乱が勃発。宗家内部の不和により、長祗が放逐され、家督争いが激化しました。
その中で頼興は中立を貫きますが、宗家の長唯(義滋)は頼興との交渉により、頼重を養子に迎えることで協力を取り付けます。
この時点で頼重の人生は大きく転機を迎え、18歳で宗家の世子「長為」となりました。
頼興は、息子の将来を案じつつも、その運命を静観することはありませんでした。
1536年には家中で信頼厚い弟長種を暗殺させ、さらに政略結婚を成立させることで、長為の地盤を強固にします。
しかし、嵐のような年月の中で築かれた結婚もまた長くは続かず、1542年には離縁という波乱が訪れます。
天文14年、宮内大輔と右兵衛佐に叙された際、長為は「晴」の字を与えられ「晴広」と改名。
これにより、彼の新たな人生が始まります。
そして1546年、義滋から家督を譲られ、晴広は相良宗家第15代当主として名実ともにその地位を確立しました。
同年、義滋と祖父長国の死去により、晴広に託された相良家の未来は、さらなる挑戦を迎えることとなります。
この時代を生き抜いた晴広の物語は、まるで風雲のごとく波乱に満ちていますが、その背後には血筋や忠誠が絡み合う家中のドラマが広がっていたのです。