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月曜ジャズ通信 2014年2月17日 夜道で滑って4回転サルコウ号

富澤えいち音楽ライター/ジャズ評論家

もくじ

♪今週のスタンダード~エンジェル・アイズ

♪今週のヴォーカル~フランク・シナトラ

♪今週の気になる1枚~西藤ヒロノブ『ゴールデン・サークル』

♪今週のジャズが流れる想ひ出~1967年の四谷“いーぐる”

♪執筆後記

「月曜ジャズ通信」のサンプルは、無料公開の準備号(⇒月曜ジャズ通信<テスト版(無料)>2013年12月16日号)をご覧ください。

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マット・デニス『プレイズ・アンド・シングス』
マット・デニス『プレイズ・アンド・シングス』

♪今週のスタンダード~エンジェル・アイズ

この曲は、弾き語りの名手と謳われたマット・デニスが1946年に作曲し(作詞はアール・ブレント)、彼が特別出演した1953年製作の映画「ジェニファー」のなかで歌い、注目されるようになりました。

マット・デニスは1914年米ワシントン州シアトル生まれのシンガー&ピアニストで、アレンジや作曲も多く手がけた才人です。1940年に作・編曲家として雇われたトミー・ドーシー楽団では多くのヒット・ナンバーに関わり、なかでも「エヴリシング・ハプンズ・トゥ・ミー」はフランク・シナトラをブレイクに導いた曲として知られています。

「ジェニファー」はミステリー映画で、Wikipediaによれば、ついていない女性主人公が南カリフォルニアのとある所有者不在の土地を管理するために雇われるのですが、そこで“失踪”したとされる前任者ジェニファーの日記を発見。次第に“失踪の謎”を解くことに夢中になっていく――というものでしたが、映画は当たらず。

映画公開前に、エラ・フィッツジェラルドやナット・キング・コールによるレコーディングの記録が残っていますが、ヒットしたのは1955年収録のフォー・フレッシュメンのヴァージョンです。

フォー・フレッシュメンは1948年に結成されたアカペラのコーラス・グループで、米インディアナ州インディアナポリスのバトラー大学に入学したばかりの学生で構成されました。新入生=フレッシュメンということだったんですね。

彼らが織りなすハーモニーはすぐに人々を魅了し、旅公演のオファーが殺到したことによって、2年に進級することなくプロに転向します。“ジャズのビッグ・バンドをそのままコーラスに置き換えた”と評されたそのパフォーマンスによって、1950年代には数々のミリオン・ヒットを放ち、現在もメンバーを変えて活動を続けています。

この曲のタイトル“天使の瞳”とは愛する女性を意味し、ステキな彼女に別れを告げられてしまった“僕”が酒場に入り浸ってデロデロになり、あたりかまわず絡んで未練がましく過ごしている、という内容。

母性本能をくすぐるというのか、男子なら誰もが経験している“脛に傷”というのか、とにかく共感できる歌詞と哀愁漂う曲調がウケて、歌い継がせる魅力となっているようです。

♪Matt Dennis- Angel Eyes

作曲者マット・デニスが1957年にリリースしたセルフ・カヴァー集『プレイズ・アンド・シングス・マット・デニス』収録のヴァージョンです。

♪Four Freshmen in Japan 1964 Part 5- Angel Eyes, Route 66, Polkadots and Moonbeams

フォー・フレッシュメンの1964年来日時の映像です。日本人のトロンボーン奏者5人による伴奏という珍しい編成ですが、これは彼らの代表作である『フォア・フレッシュメン&ファイヴ・トロンボーンズ』(1955年)に倣ったものでしょう。

彼らのコーラス・アンサンブルの斬新さは当時の日本ではすぐには受け容れられず、フォー・フレッシュメン・スタイルのコーラス・グループが出現するまでに10年ほどの年月を待たなければなりませんでした。その代表は昨年結成45周年を迎えたタイムファイヴ。リーダーの田井康夫さんにインタビュー取材をしたとき、フォー・フレッシュメンを聴いた衝撃が結成の動機になったこと、それが当時の日本のポピュラー・コーラス・シーン(たとえばダーク・ダックスやデューク・エイセス)とは一線を画するものだったことなどを伺いました。

♪Angel Eyes/越智順子

2008年に43歳の若さで亡くなった越智順子の2003年のライヴ音声です。越智さんは上京するようになってからまもなく取材を何回かさせてもらいましたが、その早逝で日本のジャズ・ヴォーカル・シーンが被った損失は大きいと思います。

神戸のジャズ・シーンを陰から支えたピアノの有末佳弘もまた2008年末に逝去。

心に沁み入るデュオです。

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THE GOLDEN YEARS OF FRANK SINATRA
THE GOLDEN YEARS OF FRANK SINATRA

♪今週のヴォーカル~フランク・シナトラ

いまだにカラオケ・スナックでは「マイ・ウェイ」を熱唱する熟年世代が後を絶たないようですが(いえ、決してボクのことではありませんよ)、それほどのポピュラリティを得ているだけに、フランク・シナトラを“ジャズ・シンガー”とするには抵抗がある人もいるようです。

もちろん、彼が頭角を現わした1930年代のアメリカではポピュラー音楽=ジャズであり、その後は同様のニュアンスが音楽自体の多様化とシナトラ自身の意識の変化によって変わったことは否めません。

それでもなお、前回の<月曜ジャズ通信>でも取り上げたビング・クロスビーに憧れて歌手を志したという根本的な動機や、ジャズに学んだと思われる応用力など、フランク・シナトラとジャズを結びつける“絆”は決して弱くないと感じているので、改めて彼のスゴさをたどってみたいと思います。

生まれたのは1915年、ニューヨーク市に近い街のイタリア系移民のコミュニティの一員として幼少期を過ごします。この出自が後にイタリア系マフィアとの関連を取り沙汰される要因になるわけですが、彼が育った環境が彼に人生を歌に託すことができるだけの深い表現力を与えることになったのは確かでしょう。

20代になるとヴォーカル・グループに参加してラジオ出演や全米ツアーを経験し、1939年には人気トランペッターのハリー・ジェイムス率いる楽団ミュージック・メイカーズの専属歌手に抜擢されて、本格的なプロ・デビューを果たします。ただ、このバンドでは(<月曜ジャズ通信>2014年1月27日 構えあって構えなしお構いなく号の「今週のスタンダード:オール・オア・ナッシング・アット・オール」でも触れましたが)リーダーとそりが合わなかったようで、彼の特徴だった甘く滑らかな歌い方には注目が集まったもののシンガーとしてのブレイクにまでは至らず、大活躍となるのは1940年に人気トロンボーン奏者トミー・ドーシーの楽団に引き抜かれて以降となります。

とくに第二次世界大戦下では慰問部隊の一員として全米や欧州を回り、まさに“国民的”な人気を博する存在になります。

終戦で状況が落ち着くと世の中のシナトラ熱も沈静化し、1950年にはノドの疾患で声が出なくなるなどの苦しい時期を過ごしますが、1953年に脇役で出演した文芸映画「地上より永遠に」でアカデミー助演男優賞を獲得し、再び脚光を浴びると、ジャズ・スピリットと立体的な表現、そして深いエモーションの3要素をバランスよく融合させた独自の世界観を見せ、円熟の極みに達した歌声で人々を魅了するようになりました。

1950年代は、エルヴィス・プレスリーの登場に象徴されるように音楽シーンの“軸”が大きく変化する時期でもありましたが、シナトラはロックンロールに擦り寄ることもなく、逆に自身のスタイルを守ることで従来のファンの支持をさらに高めていったという、興味深い現象も引き起こしています。

♪フランク・シナトラ = トミー・ドーシー楽団時代

1940年代のシナトラの歌唱です。マイクロフォンの効果を利用した“耳元で囁くような”歌い方で注目を浴びた彼独特のスタイルがよく伝わってきます。

♪Frank Sinatra-' Night And Day'

1957年のテレビ・ショーに出演している映像です。1940年代の歌い方とはかなり変化して、すでに“シナトラ節”を確立していることがよくわかります。

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西藤ヒロノブ
西藤ヒロノブ

♪今週の気になる1枚~西藤ヒロノブ『ゴールデン・サークル』

世界を飛び回り、演奏活動にとどまらず自然との融合にも注力しているギタリストの西藤ヒロノブの、2013年10月にリリースされた日本国内第3弾となるアルバムです。

西藤ヒロノブは、1999年にバークリー音楽大学に入学し、2004年にはスペインのレーベル“フレッシュサウンド”から日本人として初めてアルバムをリリースするかたちでデビューした注目株。

日本デビュー盤となる『リフレクション』(通算4枚目)をリリースすると、それまでのスムースや環境系とも異なる独特の空気感を漂わせたサウンドにジャズ・ファン以外からも注目が集まり、2012年にはリチャード・ボナをゲストに迎えて自身初のカヴァー集となる『アルフィー』をニューヨークで収録しています。

本作は、『リフレクション』と『アルフィー』のあいだの2011年制作で、サーファーでもある彼の“個性”をより前面に出して、音楽と自然の接点をさらに広げようとする意欲的な試みがなされています。

このアルバムのテーマは、冒頭に聴こえる楽器以外の音からもわかるように“波”であり、それはすなわち2011年に起きた大きな災害に深く関係していることが想像できるわけですが、西藤ヒロノブのアプローチは“共感”とも“癒し”とも異なり、もちろん“制圧”でもなく、むしろそれまでの災害と自然との関係で語られてきた視点とはまったく反対側に位置する感覚をもとに生み出されているように感じます。

だからこそ、“直後”ではなく、冷静さを取り戻すためのインターバルが必要だったのだろうと、リリースの前後の都合を推測してみたりするわけですが、そんな人間側の瑣末な都合など「意味があるの?」と見透かしているかのごとくサウンドが澄み渡っているのが、西藤ヒロノブの音楽性なのです。

このところギター界では、音響派とも違うナチュラルさを求める動きが顕著であるように感じます。たとえばポスト・サードワールドなモチーフを用いて、フォーキーともブルージーとも一線を画するようなサウンドが台頭しているわけなのですが、その流れの牽引役として重要な位置にいる西藤ヒロノブの“意味”を味わうには最高の内容になっているというのが、このアルバムでしょう。

♪Pakara Color (Hironobu Saito/Yosuke Onuma)Cureo Hall

『ゴールデン・サークル』収録の「Pakara Color」を小沼ようすけとのギター・デュオでやっている映像です。西藤ヒロノブが演奏しているのは6弦ウクレレ。

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ウエザー・リポート『ミステリアス・トラベラー』
ウエザー・リポート『ミステリアス・トラベラー』

♪今週のジャズが流れる想ひ出~1967年の四谷“いーぐる”

ボクは1960年に東京の四谷というところで生まれた。四谷は、現在のJRでいえば東京駅と新宿駅のあいだに位置することにも関係するようなのだけれど、とても中途半端な土地柄だったと思っている。番町麹町というお屋敷町に隣接して、新宿大木戸の皇居(江戸城)寄りなのだから“山の手”のようなのだけれど、狂歌にも「四谷新宿馬の糞の中であやめ咲くとはしほらしい」などと読まれるような、甲州街道=現・国道20号線“新宿通り”のターミナルとして往来の激しい町人の町の色合いが濃く、いわゆる下町っぽさも混ざっていたからだろう。

父方の祖父は、東北・福島の城下にあった歓楽街の出身だったようだ。まずは祖父の兄が東京に出て料亭を開いて成功し、後を追って弟の祖父が上京した。大伯父が荒木町に建てた“柳川”という料亭は、当時としては珍しい銅葺き屋根3階建ての立派なもので、棟上げには周辺の名士を多数呼んで祝ったということを四谷の古老に聞いたことがある。福島の花街で学んだノウハウを活かして成功したということなのだろうか。

創業当時の鳥一富澤商店
創業当時の鳥一富澤商店

ボクの祖父は「大学に通わせてやる」と兄である大伯父に言われてノコノコと上京したそうだが、東京に来ると「オマエは店をやれ」と、四谷の大横丁に鶏肉専門の小売店をもたせてもらうことになった。

現在でも口蹄疫や豚コレラなどが話題にのぼるけれど、明治に入って日本の食卓に重要なタンパク源として肉が供されるようになると、こうした疫病による供給不足が深刻な問題として顕在化した。代替として、口蹄疫や豚コレラの心配がない鶏に注目が集まり、鶏肉を専門に扱う商店が多く出現することになった。現在でも牛豚を扱う店と鶏肉専門の店が別々に存在するのは、こういう背景に因るものと考えられる。

ボクの実家の鶏肉小売店も、お屋敷町近くという地の利を活かして繁盛したと、子どものころによく祖父母からエピソードを聞かされた。しかし、第二次世界大戦下では物資が不足し、空襲で家も焼け出され、戦後は苦労が続いたそうだ。

ちょうど四ツ谷駅前に建てられることになった公設小売市場のなかの店舗を借りられるようになって商売を再開、1970年ごろまでその場所で営業を続け、その後は自宅にしていた大横丁の家を店舗に改装して移転した。

この1970年前後というのは、四谷に限らず東京23区が大きく変化する時期でもあった。

1964年の東京オリンピックの開催は、都内インフラ整備の大きなインセンティヴになったわけだが、その後に四谷近辺では新宿通りの拡幅と都電の廃線という、街の景観を一変させてしまう事業が敢行される。

ジャズに関わる話は、ここから始まる。

まだ新宿通りが広がらない1967年、四ツ谷駅にほど近い場所に山小屋風の変わった一軒家が“ジャズ喫茶”と名乗って営業を始めた。

小学校低学年だったボクは、“ジャズ喫茶”がなんであるか知る由もなく、親に尋ねても「子どもが行くところじゃない!」と言われて、その謎を解明する手がかりを得ることはできないでいた。

そんな子どものボクには無縁だった店というのが、老舗の名店として現在も場所を移して営業を続けている“いーぐる”だったのだ。

満を持して、もうすでにビルの地下に移転していた“いーぐる”の重い扉を初めて開いたのは、開店から10年も経ったころの、ボクが高校を卒業してからのことだ。

喫茶店に出入りしても補導されない身分になってようやく“地元”の有名なスポットに足を踏み入れたわけだが、念願の“いーぐる”は必ずしも居心地のいいスペースではなかった。

ジャズがひとことでは説明できないのと同じように、ジャズ喫茶も店ごとに異なる傾向をもっている。なかでも“いーぐる”の選曲は、客に対して挑戦的なものが多いように感じたのだ。

ほかの店の選曲が「これは聴いておいたほうがいいよ!」と気軽に声をかけてくるような感じだとすれば、“いーぐる”のは「こういうジャズもあるんだけれど、キミはどう感じるかな?」と、問いかけてくるような気がした。

いまでも覚えているのは、ウエザー・リポートの『ミステリアス・トラベラー』に関することで、ボクはこのとき初めてこのウエザー・リポートの作品を聴いた。なんて異質で難しい音楽なのかと驚いて、恐る恐る席を立ってジャケットを確認しに行って、あのウエザー・リポートがこんな演奏をしていたのかと重ねてビックリしてしまった。

ウエザー・リポートは『ブラック・マーケット』や『ヘヴィ・ウエザー』を聴いていて、ファンキーかつポップなエレクトリック・ジャズの楽しさをボクに教えてくれた大好きなグループのひとつになっていたのだが、その2作より前の1974年の作品にはほとんどなじみがなく、少なくとも“いーぐる”で「どうかな?」と目の前に突き出されたときには、その複雑で神秘的なサウンドのおもしろさがイマイチ理解できなかった。

しかし、そうした理解できないことへのこだわりが、ジャズへの興味をさらに高めることになるのを知るには、まだまだ時間がかかったわけだが――。

こうして、ボクの心のなかにあった“ジャズの興味スイッチ”がオンになるのに重要な役割を果たしていたのがジャズ喫茶という“場”で、なかでも“いーぐる”は節目節目でキーポイントを提示してくれる“重要な脇役”を務めてくれたのではないかと思っている。

次回からは、入り浸って……いや修行を積まさせていただいた地元以外のジャズ喫茶での話を想い出しながら書いてみたい。

♪Weather Report- Mysterious Traveller

いま振り返ると、1970年代のフュージョン・シーンを先取りするかたちでインプロヴィゼーション主体のフォーマットからコンテンポラリー・フォーマットへと大転換を図った意欲的な作品だということが見えてくる。しかし、高校生ぐらいの“耳”では、もっとキャッチーな『ブラック・マーケット』や『ヘヴィ・ウエザー』のほうが“聴きやすい”と思ったとしてもむべなるかな。

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富澤えいち『頑張らないジャズの聴き方』
富澤えいち『頑張らないジャズの聴き方』

♪執筆後記

自画自賛として紹介する作品が途切れたので、今号から「ジャズが流れる想ひ出」と題して、ボクが体験してきたジャズ周辺の状況を想い出しながら綴っていこうと思います。自画自賛で紹介できるネタが出たら随時差し替える予定です。

実力伯仲のオリンピック代表選手のなかで表彰台に上がるというのは、運としか思えない――と語ったのは、2006年トリノ・オリンピック女子フィギュア・スケート・シングル金メダリストの荒川静香さん。経験者だけに、その言葉には重みがあります。

ジャズとの出逢いに関しても運が左右するかもしれないと感じるのは、自分の経験から。

それだけに、良縁と出逢える“運気”をアップさせる責任が、ジャズを紹介する役目を負っている人たちには課せられているのではないか――。その重みをしっかりと感じながら、この<月曜ジャズ通信>を重ねていかねばと思っています。

富澤えいちのジャズブログ⇒http://jazz.e10330.com/

音楽ライター/ジャズ評論家

東京生まれ。学生時代に専門誌「ジャズライフ」などでライター活動を開始、ミュージシャンのインタビューやライヴ取材に明け暮れる。専門誌以外にもファッション誌や一般情報誌のジャズ企画で構成や執筆を担当するなど、トレンドとしてのジャズの紹介や分析にも数多く関わる。2004年『ジャズを読む事典』(NHK出版生活人新書)、2012年『頑張らないジャズの聴き方』(ヤマハミュージックメディア)、を上梓。2012年からYahoo!ニュース個人のオーサーとして記事を提供中。2022年文庫版『ジャズの聴き方を見つける本』(ヤマハミュージックHD)。

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