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真田信繁が真田丸を拠点とし、大軍の前田勢に勝利した意外な理由とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
真田信繁像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、真田信繁が真田丸を拠点とし、見事に大軍の徳川方の前田勢を撃退していた。真田丸は小規模な砦で、籠城した真田勢の数は決して多いとは言えなかったが、なぜ勝ったのか詳しく検討することにしよう。

 慶長19年(1614)10月頃から大坂冬の陣がはじまり、各地で豊臣勢と徳川勢が交戦し、一進一退の攻防を繰り広げていた。徳川家康は信繁が籠る真田丸の攻撃については、慎重な態度で臨んだといわれている。

 同年12月2日、家康は徳川勢に与する前田利常に塹壕や土塁を築くよう指示した。攻城戦で塹壕や土塁を築くのは、セオリーである。徳川勢には、井伊直孝と松平忠直の軍勢も加わっていた。

 信繁は前田勢の動きを確認すると、ただちに工事を妨害すべく攻撃を行った。こうして両軍は小競り合いを繰り返していたが、ついに12月4日に前田勢の家老・本多政重が真田丸前の篠山に兵を出した。

 このとき、篠山には真田の兵が1人もいなかったので、前田勢の軍勢はこれをチャンスと考え、一気に真田丸へと攻め込んだのである。一見すると好機に見えたが、この攻撃が悲劇になったのである。

 真田勢があえて兵を出さなかったのは、敵を油断させるためで、前田勢の攻撃を待ち構えていたからだった。そこへ前田勢が攻め込んで来たので、激しく鉄砲を撃ち込んだという。

 真田丸をめぐる攻防は、早朝の6時頃から夕方の4時頃まで約10時間もの長時間にわたって。やがて、前田勢の情勢が不利になると、家康と子の秀忠はすぐに撤兵を命じた。前田勢は大軍だったが、信繁の巧みな作戦に大苦戦を強いられたのだ。

 ところが、前田勢の撤兵は思うように進まず、もたついている間に被害をさらに拡大させた。その結果、前田勢の戦死者は数千人にのぼったといわれている。

 真田丸の攻防を記す後世の編纂物は、信繁の巧妙な戦いぶりを生き生きと描いているが、それをすべて史実として認めてよいのだろうか。その点を考えてみよう。

 実のところ、前田勢が真田丸の攻防で敗北した理由は、配下の諸将の抜け駆けや命令無視にあったという。前田勢の将兵は恩賞欲しさに手柄を立てようとし、軍令を無視しててんでバラバラに次々と抜け駆けした。

 信繁は、無謀にも攻め込んでくる前田勢を待ち構え、準備していた作戦どおり撃退したのだ。まさしく、「飛んで火にいる夏の虫」である。前田勢の敗因は、配下の諸将の統率が取れなかったうえに、彼らが無謀な突撃を繰り返したので自滅したというのが実情だった。

 むろん、信繁の戦いぶりを過小評価すべきではないだろう。信繁は、烏合の衆ともいえる牢人たちを見事に取りまとめ、大軍を率いた前田勢を撃退した。信繁の大活躍により、豊臣方と徳川方との間に和睦の気運が生じたのである。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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