【「麒麟がくる」コラム】長宗我部元親と土佐一条氏の大津御所体制は本能寺の変に影響したのか
■長宗我部元親と大津御所体制
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のなかで、今後は四国政策転換説と絡めて、織田信長と長宗我部元親の関係がクローズアップされるはずだ。今回は重要な論点の一つ、大津御所体制について触れておこう。
なお、信長と元親との関係などについては、こちらとこちらも参照。
■大津御所体制とは
当時、長宗我部元親の権力は、どのように捉えられていたのだろうか。長宗我部氏あるいは一条氏の権力構造を規定する概念については、「大津御所体制」という説があり、その観点から織田信長と元親との関係が論じられた。
大津御所体制とは、元親が土佐国の形式的な国主として一条内政(兼定の子息)を推戴し、元親が実力によりこの体制を規定するという説であり、元親と内政の妥協の産物と指摘されている。
大津(高知市)とは、内政が本拠とした大津城のことである。元親の地位については「信長により大津御所(公家)輔佐を命ぜられた武家に過ぎず、御所体制内に封じ込められた不完全大名(陪臣)」と位置付けた。
元亀4年(1573)6月から天正3年(1575)5月にかけて、土佐一条氏の本家である一条内基が土佐に下向した。
下向した理由は、土佐一条氏の家臣団からの要請に基づき救援に赴いたとされ、元親に土佐一条氏の援助を依頼したというのである。内基が目標としたのは、公家大名から在国大名への縮小・転換であったとされ、内基は内政の後見役を引き受けたと指摘されている。
上記のような経緯を踏まえ、信長は元親の四国統一と大津御所体制を承認した。また、信長が元親と大津御所体制を二重に統制できるという理由で、摂関家の一条内基が大津御所体制の後援者であったことを重視していたと指摘されている。
■信長の意図
信長は一条氏を通して、長宗我部氏の統制を行おうとした。現在、この説は土佐の史学界を中心にして、広く承認されているようである。
『信長公記』天正8年6月26日条には「土佐国捕佐せしめ候長宗我部土佐守」と記されており、『多聞院日記』天正13年6月21日条にも長宗我部氏は「土佐一条殿の内一段の武者也」とある。
後者にいたっては、長宗我部氏が土佐一条氏の内衆に位置付けられている。以上の記述は、大津御所体制の重要な根拠史料である(ほかに『土佐物語』などの二次史料も使用)。
ともに長宗我部氏を土佐一条氏の格下に位置付けるのは共通した点であるが、いずれも断片的な記述に過ぎず、大津御所体制とまで言い切れるのか疑問が残る。
■大津御所体制への批判
近年、大津御所体制については、批判もなされている。以下、その指摘を考えることにしよう。
そもそも内政に関する一次史料は乏しく、大津御所体制の根拠史料は『土佐物語』などの後世の編纂物に偏っているといわざるをえない。
『土佐物語』は土佐の吉田孝世の手になるもので、長宗我部氏の興亡を描いた軍記物語で、宝永5年(1708)に成立した。しかし、一条兼定を暗愚な武将として描くなど、記述には問題が多いといえる。
『信長公記』の記事は、内政個人を補佐するのではなく、土佐国を補佐するように読める。また、『多聞院日記』は一条氏(藤原氏)の氏寺である奈良・興福寺の塔頭・多聞院の院主が記したもので、あえて一条家と長宗我部氏の家格を考慮して、長宗我部氏を格下のように表現していると考えられる。
つまり、このような断片的な記述からは、大津御所体制はとても承認できないということになろう。仮に、土佐一条氏が形式的に「礼の秩序」の最上位に位置付けられたとしても、実際の権力のあり方と混同している感が否めない。
内政は長宗我部氏の傀儡に過ぎず、軍事的な脅威にはならないのである。また、信長(のちの秀吉も含めて)が大津御所体制を長宗我部氏の統制に利用する理由が十分に検討されていない。
以上の理由から、大津御所体制という概念はいささか検討不足であり、現時点では受け入れられないということになる。やはり、二次史料などの記述は極めて断片的で、信長が一条家を通して長宗我部氏を統制したという、具体的かつ裏付けとなる史料がない以上、認めることはできないと考える。
また、大津御所体制が本能寺の変に影響したとは考えられないだろう。