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藤原道長の次男で、藤原頼通の弟の藤原頼宗とは何者なのだろうか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
藤原道長。(提供:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原頼宗が少しばかり姿を見せた。藤原道長の次男で、藤原頼通の弟の頼宗とは何者なのか、考えてみることにしよう。

 藤原道長には正室の倫子(源雅信の娘)や側室の明子(源高明の娘)だけなく、複数の妻がいた。子だくさんだったのは、もちろんいうまでもなかった。子が大勢いることは、家の繁栄をも意味したのである。

 道長の子といえば、長男の頼通(992~1074)、五男の教通(996~1075)が有名であろう。頼通は後一条天皇の摂政を務めると、後朱雀天皇、後冷泉天皇の関白を50年近く務めた。道長以上の長期政権を実現したのである。

 頼通は太政大臣まで昇進し、宇治にあった道長の別荘(宇治殿)を平等院鳳凰堂に改修するなどし、まさしく栄耀栄華を極めたのである。その権勢は、揺るぎなかったといえよう。

 一方の教通は、兄の頼通と同じく順調に昇進した。しかし、頼通が長命であり、長らく関白の座にあったので、教通が関白に就任したのは晩年のことだった。とはいえ、教通は正室の子だったので、それなりに優遇されていた。

 頼宗(993~1065)の母は、側室の明子だった。頼通と教通の母は、正室の倫子である。当時、母が正室であるか否かは重要だったので、頼宗の昇進スピードは頼通と教通より遅れた。頼宗の心中は、どうだったのだろうか。

 しかも年を経るにしたがって、大臣の椅子が頼通と教通のほか、藤原実資といったベテランが占め、頼宗の昇進の道を阻むことになった。頼宗がようやく内大臣に就任したのは、永承2年(1047)のことである。ちなみに、弟の教通が内大臣になったのは、その26年前である。

 天喜6年(1058)、頼宗は教通とともに従一位に叙せられると、その2年後に念願の右大臣に昇進した。頼宗が亡くなったのは、康平8年(1065)2月3日のことだった。享年73。当時としては、かなりの長命だったといえよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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