ザ・クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウン/神秘主義ロックとジミ・ヘンドリックス【後編】
“ザ・ゴッド・オブ・ヘルファイアー=地獄の炎の神”ザ・クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンへのインタビュー後編。
前編記事では2枚のニュー・アルバム『Monster's Ball』『Long Long Road』を中心に語ってもらったが、今回はオカルト/神秘主義への傾倒やジミ・ヘンドリックスとの新バンド結成の計画など、さらに奈落の底まで掘り下げて訊いてみたい。
<日本の文化に魅了されてきた>
●1967年、あなたがシングル「デヴィルズ・グリップ」を発表した頃のイギリスではオカルト/神秘主義がブームになっていて、ハマー・ホラー映画や“魔術王”アレックス・サンダースなどがメディアを騒がせていました。そんな時代背景はあなたにどのような影響をおよぼしましたか?
オカルト・ブームのおかげで私たちのようなバンドに注目が集まったことは確かだよ。テレビ番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演した次の日、「あの炎のヘルメットを被った奴のレコードが欲しい!」と誰もがレコード店に殺到したんだ。ただ、決してブームに便乗したわけではなく、子供の頃から奇異なものに魅力を感じてきた。ひとつのターニングポイントとなったのは、学生のときに見たT.S.エリオット作の演劇『寺院の殺人』だった。トーマス・ベケット大司教が寺院で殺害されるシーンで、すべての照明が真っ赤になる。ショーアップされた恐怖というものと、演劇における照明の重要性に気付かされたよ。ロンドンに“ワトキンス・ブックショップ”という書店があって、心霊現象や世界の奇習などに関する本を扱っていた。ライヴの舞台担当のマイク・レイノルズという人間と同居していて、ケルトや北欧のキリスト教伝来前の異端宗教、パンの自然神とかドルイド信仰について話し合ったんだ。そんなシンボリズムをどのようにステージ・パフォーマンスに反映させるか考えて、「ファイアー」の炎のヘルメットもその時期に生まれた。
●ヤードバーズのジム・マッカーティもロンドンの神秘主義専門書店“アトランティス・ブックショップ”の常連だったと話していました。
ああ、“アトランティス”にもよく行ったよ。みんな怪奇や未知なるものに関心があったんだ。映画も好きだったけど、イギリスにはミュージック・ホールの伝統がある。ファミリー向けの大衆演劇ではあっても、奇妙だったり残酷な要素があったんだ。『Monster's Ball』「Curse Of The Hearse」(1960年代のテリー・ティーンのノヴェルティ・ロカビリー・ヒット)などもミュージック・ホール的なナンバーだよ。アフリカ大陸、中南米などの異文化にも興味があったし、特に日本の文化には魅了されてきた。日本の能、そして『怪談』(1965)『鬼婆』(1964)などの映画は豊富なイマジネーションに満ちていた。能面が人間の顔と一体化してしまい、取ることが出来なくなるシーンには震撼したよ。ベティ・デイヴィスやそういうハリウッド映画とはまったく異なるものだった。日本の伝統的な衣装からもさまざまなヒントを得たんだ。
●「ファイアー」が全英チャート1位を達成した1968年の夏、イギリスではジョン・メイオールズ・ブルースブレイカーズやフリートウッド・マックらに代表されるブルース・ブームが起こっていましたが、それはどのようなものでしたか?
アメリカのブルースは、私が音楽を聴くようになった1950年代のポップ・ミュージックに多大な影響を与えていた。エルヴィス・プレスリーやリトル・リチャードの曲には、ストレートなブルース曲もあったよ。だから私自身にもブルースの曲作りやフレージング、トーン、情熱は染み込んでいるんだ。スクリーミング・ジェイ・ホーキンスの「アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー」を歌っているのも、ブルースからの影響だ。アレクシス・コーナーのような人がアメリカのブルースメン達をイギリスに招聘して、若いイギリス人ミュージシャン達にバックを務めさせたことは、ブルース文化を根付かせることになった。サニー・ボーイ・ウィリアムスン、メンフィス・スリム、マディ・ウォーターズなどがやってきて、大きなステージで公演を行った。イギリスのブルース・ファンはアメリカ人でも知らないようなプレイヤー達を知っていたほどだよ。
●英国ブルース・ブームの起爆剤といえばジョン・メイオールのアルバム『ブルースブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン』(1966)でしたが、あなたはザ・フーの『トミー』映画ヴァージョン(1975)でエリックと「アイサイト・トゥ・ザ・ブラインド」を共演しています。それ以降、彼との交流は深まりましたか?
1960年代にはヨーロッパやアメリカで何度かクリームと対バンだったことがあるけど、エリックと共演したのはそのときだけだよ。オフステージでは何度か会ったことがある。2000年代の初め、私は“ギルフォード・フェスティバル”に出演して、MCの役を務めていたんだ。バックステージにエリックとピーター・グリーンがいたよ。エリックは「1曲しかヒットがない人と会話するべきじゃないかもね」とジョークを飛ばしていた。
●『Monster's Ball』ではザ・ストゥージズのジェイムズ・ウィリアムスンとザ・ダムドのラット・スケイビーズと共演したクリームのカヴァー「アイ・フィール・フリー」が収録されていますが、アルバム全体のテーマとどのように呼応するのでしょうか?
「アイ・フィール・フリー」はスピリチュアルな曲だと私は解釈しているんだ。街を歩いて、世界を新たな視点から見て、自由を感じる...ジャック・ブルースとピート・ブラウンがどんな意味を込めて書いたか直接訊いたことがなかったけど、自分自身を解き放つ曲として、アルバムの流れと合っていると思う。
<ジミ・ヘンドリックスと新グループを組む構想があった>
●あなた自身のブルース体験について教えて下さい。
ブルースを本格的に聴くようになったのは、学生の頃だった。レディング大学に通っていた頃、学生会館はいくつもの部室が中央の庭を取り囲むようになっていた。ひとつの部室からはザ・ビートルズ、別の部室からモダン・ジャズ、クラシック、ボブ・ディラン...という感じで、2階の部室で誰かがハウリン・ウルフなどのブルースを聴いていたんだ。当時ブルースはコンテンポラリーな音楽で、大学生もよく聴いていた。それらすべてが私のミュージシャンとしてのバックグラウンドとなったんだ。私はトランペットをフィーチュアしたモダン・ジャズのカルテットやクインテットでも歌っていた。チャーリー・ミンガスの曲をやったりしたけど、彼もブルースからインスパイアされた曲をやっていたね。同時に私は大学のフォーク部にも入っていた。そちらでも昔のカントリー・ブルースを聴いている人が大勢いたよ。それでザ・ローリング・ストーンズを見に“マーキー・クラブ”に行ったり、グレアム・ボンドを見に“フラミンゴ・クラブ”に行ったよ。グレアムが弾くハモンド・オルガンに魅了されたね。彼はブリティッシュ・ジャズの名手だった。
●グレアム・ボンドもオカルトや神秘主義に傾倒していたことで知られていましたね。
うん、ピート・ブラウンに紹介されて知り合ったんだ。彼とは魔術(magick)について話し合って、一緒にバンドをやろうと誘われたこともあるよ。私はひとつのテーマに限定されるバンドはやりたくなかったし、いろんなことを追求したかったから辞退したんだ。それで彼は別のミュージシャン達とそういうバンドを結成した(ホーリー・マジック)。ディック・へクストール=スミスと話していたとき聞いた話だけど、グレアムは船を借りて仲間たちと、イングランドを壊滅させようとする悪の魔術団の野望を阻むために各地の地下水路を回ったらしい。ディックはそういうのに付き合わされていたんだ。
●ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとあなた、ヴィンセント・クレインが合体してスーパーグループを作る話があったというのは本当でしょうか?
ああ、本当だよ。1969年、ザ・クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンが当時契約していた“トラック・レコーズ”がジミのレコードも出していて、トニー・ガーランドという人物が新しいツアー・マネージャーとなったんだ。彼が「ジミがあなたと会いたいらしい」と橋渡しをしてくれた。ニューヨークでスティーヴ・ポールという人物がやっていた“ザ・シーン”というナイトクラブがあって、当時のミュージシャンは誰もが自分のショーの後に訪れていて食事をしたり、即興でジャムをしていたんだ。それで私とジミも何回かジャムをやったことがある。ジミがベース、ジョン・リー・フッカーとフランク・ザッパがギターを弾いて、私が歌ったこともあった。それに既存の曲をやるのではなく完全にフリーフォームでインプロヴィゼーションをやることにしたんだ。凄まじいエネルギーだった。終わった後に1人のお客さんが来て「歓喜の祭典だった」と言っていたよ。それ以前にもザ・クレイジー・ワールドとエクスペリエンスは何度かフェスティバルで一緒にやっていたから、お互いの音楽を知っていた。ジミはクラシック音楽のコード進行を研究しようとしていたし、よりヴィジュアル面を重視、そしてシアトリカルな歌唱が出来るシンガーを探していた。それで私に興味を持ってくれたんだ。
●“ザ・クレイジー・エクスペリエンス”とでも呼ぶべきこのスーパーグループが実現しなかったのは何故でしょうか?
ジミとはじっくり話して、彼の抱いているヴィジョンについて語ってもらったし、私の持つイメージも伝えて、一緒にやることが決まりかけていたんだ。ただ、ヴィンセント・クレインは音楽に対する異なった考えを持っていた。いわゆるスーパーグループの一部になることに警戒していたのかも知れない。私はジミと一緒にやったら凄いことが出来る!とスリルを感じていたけどね。それに加えて、その時期の私は“トラック”でない別のレコード会社から契約オファーを受けていて、ビジネス面の複雑なかけひきがあったんだ。そんな時期、ライヴの後に誰かがヴィンセントの飲み物にLSDを盛るという出来事があった。それで彼は5、6ヶ月ライヴから離れることになって、私はアメリカ・ツアーの残りの日程を別のメンバーとやらねばならなかったんだ。既に契約をしてしまっていたからね。ヴィンセントはザ・クレイジー・ワールドの音楽性に重要な役割を果たしていた一員だったのに拘わらず、急遽7日ぐらいで新しいキーボード奏者を見つけて、リハーサルまでしなければならなかったんだ。正直そのことで頭がいっぱいで、ジミとの新バンドのことを考える余裕がなかった。ジミも “ウッドストック・フェスティバル”やバンド・オブ・ジプシーズなど、彼自身の魂が求める音楽へと向かっていった。そうして話がフェイドアウトして、結局一緒にやる機会がないまま、彼は旅立ってしまったんだ(1970年9月18日)。ザ・クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンの2作目のアルバム『ストレンジランズ』を作ったのは、ジミとのセッションが頓挫した後だったと思う(1969年にレコーディングしたが当時はリリースされず、1988年に発掘された)。彼とのコラボレーションが実現しなかったのは残念だけど、私は幸せな音楽キャリアを積むことが出来たよ。あとどれだけやれるか判らないけど、行けるところまで行ってみるつもりだ。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人のテーマ支援記事です。オーサーが発案した記事テーマについて、一部執筆費用を負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】