【「麒麟がくる」コラム】明智光秀が頼った細川藤孝・忠興親子は、なぜ味方にならなかったのか
大河ドラマ「麒麟がくる」では、細川藤孝・忠興親子が重要な役割を果たし、最終回でも強い存在感を示していた。明智光秀が決起した際、もっとも頼りにしたのが藤孝・忠興親子だったが、結局は味方にならなかった。その理由を考えることにしよう。
■明智光秀が頼りにしていた人々
まず、明智光秀が味方の1人にと考えていたのは、親しい間柄にあった大和の筒井順慶である。天正10年(1582)6月4日、順慶は光秀のために京都に援軍を派遣したが、その態度は実にあいまいだった。
その後、順慶は光秀に援軍を派遣したり、呼び戻したりしていたが、ついに大和の与力衆から血判の起請文を取り、羽柴(豊臣)秀吉に誓書を送った(『多聞院日記』)。光秀の味方にならなかったのだ。
いかに順慶が光秀と仲が良かったとはいえ、自らの命がかかっている。冷静に情勢を判断した結果、順慶は光秀ではなく、秀吉に与することを決意したのである。
ただし、これは順慶の独断ではなかった。当時、順慶と大和の与力衆は信長によって規定されていた。大和の与力衆は、あくまで信長の命令によって順慶に属したに過ぎない。そのような事情から、信長が亡くなった以上、順慶は改めて大和の与力衆に意向を問わなくてはならなかった。
順慶が大和の与力衆と話し合って出した結論は、秀吉に与することだった。ゆえに、順慶は代表して秀吉に誓書を送ったと指摘されている。従来の順慶が優柔不断とされた「洞ヶ峠の日和見」については、再考の余地があろう。
■細川藤孝・忠興父子への期待
ほかに光秀が味方にと期待したのは、細川藤孝・忠興父子である。藤孝の嫡男・忠興は、光秀の娘・お玉(細川ガラシャ)を妻として迎えていた。
婚姻関係は、互いの同盟を誓ったものである。こうした関係から、光秀は藤孝・忠興父子が間違いなく味方してくれると思ったに違いない。
同年6月9日、光秀は3ヵ条から成る覚書を送った(「細川家文書」)。内容を確認しておこう。
(1)藤孝・忠興父子が髷を切ったことに対して、光秀は最初腹を立てていたが、改めて重臣を派遣するので、親しく交わって欲しい。
(2)藤孝・忠興父子には内々に摂津国を与えようと考えて、上洛を待っていた。ただし、若狭を希望するならば、同じように扱う。遠慮なくすぐに申し出て欲しい。
(3)私(光秀)が不慮の儀を行ったのは(本能寺の変における信長謀殺)、忠興を取り立てるためで、それ以外に理由はない。50日100日の内には、近国の支配をしっかりと固め、それ以後は明智光慶と忠興にあとのことを託し、自分(光秀)は政治に関与しない。
すでに指摘されているように、文章は藤孝・忠興父子に味方になるよう再考を求めるもので、ほとんど哀願に近いものである。
一方で、この書状から光秀は藤孝にクーデター計画を事前に伝えており、クーデター直後の混乱を終息させた後には、子や娘婿に政権運営を託して隠居する予定だった、との説がある。しかし、光秀が変の前に決行の計画を藤孝に知らせた史料はなく、(3)は本心を伝えたとは思えない。
■話をすり替えた光秀
(3)の冒頭の「不慮の儀」が示すのは、本能寺の変は計画的なものではなく、光秀のとっさの行動であったことを裏付けている。
光秀は「こうなってしまった以上は仕方がない」と考え、一連の行動は娘婿の忠興のためであったと話をすりかえ、畿内を平定のうえは政治から退き、明智光慶と忠興にあとのことを任せると言い訳をしているにすぎない。
追い込まれた光秀は、何が何でも藤孝・忠興父子を味方に引き入れなくてはならなかった。やはり、光秀には政権構想や政策もなく、変後にあたふたとしている様子がうかがえる。そんな状況を見た藤孝・忠興父子は、光秀の味方になろうと思わなかったに違いない。
結局、光秀がもっとも頼りにしていた人々が、誰も味方にならなかった。ほかの大名たちの対応については史料が残っていないが、だいたい想像がつくことであろう。
光秀が準備周到ならば、ここまで悲惨な結果に至らなかったはずである。したがって、光秀は本能寺の変を起こし、信長を討伐することに成功したものの、具体的なその後の構想はなかったと考えられる。
藤孝・忠興父子は光秀の準備不足を見抜き、味方にはならなかった。先見の明があったといえるのかもしれない。