弟の源義経を討つように命じた頼朝。義経の首を見たとき何を思ったのか?
現在であっても、親子や兄弟姉妹間の殺人が行われている。非常に嘆かわしいことであるが、源頼朝は弟の義経を討った。義経の首は頼朝の面前に運ばれたが、いったい何を思ったのか考えてみたい。
当初、頼朝は弟の義経を信頼し、義経も兄の期待にしっかり応えた。平家を滅亡に追い込んだのは、義経の力量によるところが大きい。しかし、平家滅亡後の義経はすっかり有頂天になり、頼朝に無断で朝廷から官位を授けられるなどした。
その結果、頼朝は秩序を乱した義経を討つことにした。義経が衣川館(岩手県平泉町)で討たれたのは、文治5年(1189)閏4月30日のことである。
義経が討伐されると、奥州の飛脚が鎌倉に遣わされ、義経を討ったことや首を鎌倉に持参する旨が伝えられた。一報を受けた頼朝は、義経を討ったことについて、一条能保(頼朝の妹婿)を使者として朝廷に遣わし報告した。
九条兼実は義経が討たれたことを知ると、自身の日記『玉葉』に「天下の悦び」と記した。義経を捕えるよう院宣が下されたのだから、当然のことだったのかもしれない。
同年6月13日、新田高平(藤原泰衡の使者)が鎌倉に向かい、頼朝に義経の首を持参した。侍所別当の和田義盛、同じく所司の梶原景時が、義経の首実検を担当した。旧暦の6月とはいえ、暑かったと考えられる。義経の首が腐敗していなかったのか、心配だったかもしれない。
義盛と景時の2人は兜と直垂を身に着け、甲冑を着した郎党20騎を従えて、首実検の場に姿をあらわした。義経の首は腐敗を防ぐため美酒に浸しており、黒漆の櫃に納められていた。
いかに敵対したと義経とはいえ、首には敬意が払われ、丁寧に扱われていたのである。高平は2人の従者に命じて、義経の首の入った黒櫃を運ばせたという。
首実検の様子を見た者は、在りし日の義経を思い出し、変わり果てた姿に皆涙を流したと伝わっている。ところが、頼朝が義経の首を見たときの心情を伝える記事は、『吾妻鏡』には書かれてない。
このときの頼朝の心情を史料的に確認するのは困難で、残念ながら永遠の謎である。
あえて想像するならば、母が違うとはいえ、義経は頼朝の弟だったのだから、悲しい気持ちだったのだろう。しかし、御家人を前にして、頼朝が悲しい気持ちを表に出すことは憚られた。
頼朝は弟の範頼も討ったが、そうした非情さがあったので、幕府を開くことができたのだろう。たとえ弟であっても、秩序を乱した者を討つという姿勢は、御家人らに伝わったはずである。