父の後継者として、意外にがんばった3人の二世戦国大名
ここのところ、二世の経営者候補の問題が報道で盛んに取り上げられている。戦国大名の例でも、父は偉大だったが、息子がダメだったことは多い。今回は、父の後継者として、意外にがんばった3人の二世戦国大名を紹介することにしよう。
1.黒田長政(1568~1623)
長政は、智将として知られる官兵衛の子である。官兵衛は長政に早い段階で家督を譲り、後見の立場となった。慶長の役のとき、官兵衛は豊臣秀吉の命令に背いたことを咎められ、危うく処分されそうになった。
しかし、秀吉は黒田家のこれまでの貢献を評価し、厳しい処分を科すことを取り止めたが、長政の心は秀吉から離れた。
関ヶ原合戦前夜、長政と官兵衛は早々に東軍の徳川家康に味方し、西軍の諸将を東軍に引き入れようとした。その結果、毛利輝元、小早川秀秋らの有力諸将が西軍を寝返り、東軍に身を投じた。
実際の戦いにおいても、長政は大活躍し、戦後の恩賞として初代の福岡藩の藩主になったのである。
2.細川忠興(1563~1646)
忠興は、教養人として知られる幽斎の子である。忠興は父とともに織田信長に仕えていたが、その死後は豊臣秀吉に仕えた。
秀吉の死後、忠興は石田三成と対立し、その排除に成功した。徳川家康の与党となった忠興は、豊後国杵築に6万石を加増されたのである。
関ヶ原合戦がはじまると、忠興は東軍に属した。妻のガラシャは、大坂で三成の軍勢によって死に追いやられるが、本戦では大いに軍功を挙げた。
一方で、父の幽斎も丹後国田辺城で西軍の攻撃に耐え、配下の松井康之は杵築城で大友吉統の攻撃を凌いだ。戦後、忠興は軍功を認められ、初代の小倉藩主になったのである。
3.徳川秀忠(1579~1632)
秀忠は、江戸幕府を開いた家康の子である。三男ながらも、早くから後継者と目されていた。しかし、関ヶ原合戦では、本戦に参加することができなかった。
それを大失態と評価する向きもあるが、違うだろう。そもそも関ヶ原合戦がいつはじまるのかは、家康自身にもわからなかったことだ。
秀忠は家康に征夷大将軍を譲られ、その地位を確固たるものにした。大坂の陣がはじまると、父と協力して豊臣家を滅ぼしたのである。
戦後、江戸幕府の盤石な体制を打ち立てるため、「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」を制定した。こうした秀忠の基礎作りがあったので、江戸幕府は約260年も続いたのである。
3人の例を確認すると、父が生きているうちに家督を子に譲り、自らは後見として指導していたようだ。こうした後継者の養成法が功を奏したのだろう。これができないと、世襲は失敗するのだ。