50年前の今日行われた「世紀の一戦」
ニューヨーク、マンハッタンに建つ、マジソン・スクエア・ガーデンに設けられた2万455席のチケットは、瞬く間に完売した。リングサイドには、フランク・シナトラをはじめとする著名人たちが詰めかけている。誰もが固唾を吞んでリングを見守っていた。
大歓声と共に、先に姿を現したのは29歳の挑戦者、モハメド・アリ。この時点での戦績は31戦全勝25KO。
ほどなく、ブーイングを浴びながら26戦全勝23KO中のチャンピオンがロープをくぐる。
1971年3月8日、27歳の世界ヘビー級チャンピオン、ジョー・フレージャーに元王者のモハメド・アリが挑んだ一戦は、世界中の注目を集めた。
アリは1960年ローマ五輪の金メダリストであり、フレージャーは1964年の東京五輪で金メダルを獲得していた。
ローマ五輪で獲得した金メダルを首から下げ、意気揚々と故郷の白人専用レストランに入ったアリは、当時、本名のカシアス・クレイと名乗っていた。だが、ホテル、トイレ、水道など、何から何まで白人と有色人種が分けられていた時代のアメリカ合衆国において、ブラックが獲得した金メダルはクレイが感じるほど、価値のあるものとはされなかった。
五輪前と同じように入店を断られ、「当店にはニガーに出す食べ物はない」と告げられる。アリは怒りに震え、金メダルをオハイオリバーに投げ捨てる。
そして、プロの世界で己を証明しようと、デビューから3年半後に世界ヘビー級タイトルを獲得。9度の防衛に成功し、その行く手を阻むものは無い、とされる図抜けたチャンピオンとなった。
世界の頂点を掴んだクレイは、「イスラム教に、服従された黒人が解放されることを感じる」と語り、モハメド・アリに改名。
そして、自らの黒い肌がいかに優れ、美しいかを見せ付けながら勝ち星を重ねる。試合の度に口にした「Float Like a Butterfly. Sting Like a Bee(蝶のように舞い、蜂のように刺す)」というファイティングスタイルは、華麗だった。
そんなアリはベトナム戦争への徴兵を拒み、タイトルを剥奪される。
「なぜ我々をニガーと呼んだことのない、善良なるベトナム人を俺が殺さねばならないのだ?」
と、声を大にして言った。
反戦、反米のスポークスマンとしてアリは国家に抗い、信念を貫いたのである。しかし、最高裁で無罪を勝ち得るまでの3年7カ月、ボクサーとしてブランクを余儀なくされる。
アリのトレーナーを務めたアンジェロ・ダンディは「この時期こそが、ボクサーとしてのアリを完成させるものだった。結局、彼は全盛期を持てずに終わった」と振り返っている。
1970年10月、アリがカムバックした頃のアメリカ合衆国は、多くの国民がベトナム戦争は無意味であったと理解しており、元王者の存在はさらに輝きを増していた。アリはリング復帰3戦目にして、フレージャーに挑む。
試合前、アメリカ社会、そしてボクシングジャーナリズムを味方につけたアリは、「フレージャーはあくまでも白人に愛される王者だ」「ヤツはアンクル・トム(白人に媚びる黒人)だ」なる発言を繰り返し、プレッシャーをかけ続ける。言わば、心理戦を仕掛けたのだ。
フレージャーはサウスキャロライナ州ビューフォートの黒人スラムで、13人きょうだいの12番目として生を享けた。白人が所有する農家の小作人だった両親を救おうと、幼い頃から身を粉にして農作業に従事し、15歳で一旗揚げようと大都会、ペンシルバニア州フィラデルフィアに移り住む。食肉処理場で働きながらボクシングジムに通い、ケガ人の代役として出場した東京五輪で金メダリストとなる。フレージャーは、世の辛辣さを嫌というほど味わいながら、黒人社会で生きて来た青年であった。
むしろ、この時点で白人層に愛されていたのは、アリの方だった。
アリは、フレージャーの容姿を「醜い」と発言し、「誰が本物のチャンピオンだ?」と大衆に呼びかけた。
フレージャーはアリの行為に憤っていた。
「アンクル・トムだと? 俺は黒人として生きて来たんだ。木を伐採し、畑仕事で疲弊し、ゲットーで暮らして来た。ヤツのボクサーライセンス再発行の折には、確かに白人にペコペコして協力してやった。ヤツの為と思ってのことだ。一連の発言や行動は裏切り以外の何物でもない!」
そして、敢えて挑戦者を「クレイ」と呼び、アリの挑発に応じた。
"スモーキン(蒸気機関車)"・ジョーと呼ばれたフレージャーは、オープニングから前進する。序盤に被弾しながらも、頭を素早く揺すってアリの左を躱した。1ラウンドに2度、左フックをクリーンヒットし、ペースを握る。
ラウンドが進むに連れ、チャンピオンは自らを散々扱き下ろしたアリのフットワークを封じ、蝶のように舞うことが出来ない距離で闘う。そして、ベストパンチである左フックを見舞い続ける。
アリは無尽蔵のスタミナを誇るフレージャーを持て余し、クリンチするシーンが目立っていく。
しかしながら、相手は時代の寵児である。ジャッジをも味方につけているかもしれないーー。フレージャーはひらすらアリを追い詰め、左フックを放った。両者の身長差は10センチ。フレージャーが自身のパンチを当てるには接近戦しかない。蜂のように刺すパンチを食らいながらも、フレージャーは下がらなかった。
3、4、6回と単発の左フックをヒットしたフレージャーは、第8ラウンド開始前に、アリに向かって「お前を倒してやる」というジェスチャーを見せる。劣勢に立たされたヒーローを鼓舞しようとアリーナには「アリ・コール」が木霊した。
9回、反撃に出たアリのパンチを浴びるが、フレージャーは怯まず、アリにロープを背負わせる。11ラウンドにはアリをダウン寸前にまで追い込み、最終の第15ラウンド26秒、チャンピオンは得意の左フックでダウンを奪う。
フレージャーの明確な勝利であったが、チャンピオンは激しく消耗し、この日から2週間入院することとなる。
アリに勝利したフレージャーは、試合から1カ月後の4月7日、サウスキャロライナ州議会の要請で、12分間のスピーチをした。同議会に黒人がゲストスピーカーとして招かれるのは、南北戦争以来初めてのことであった。
この日、フレージャーは言った。
「人類は助け合わねばならない。隣に住んでいるのが白人か黒人かとか、誰がいい車に乗っているかとか、自分の娘が誰と遊んでいるかとか、娘の学校の隣の席は誰か、などと詮索するのは、もう止めよう」
50年前の3月8日は、ジョー・フレージャーが魂を込めた闘いを演じ、アリに勝利した日である。