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【中世こぼれ話】南朝秘話。兵庫県加西市清慶寺の南帝御首塚伝説とは何か

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
吉野には南朝の史跡が多数あるが、兵庫県加西市にもあった。(写真:アフロ)

 話題になった宝塚歌劇・月組公演・ロマン・トラジック『桜嵐記』は、南北朝時代に活躍した楠木正成の3人の息子たちの物語だ。実は、兵庫県加西市に南帝御首塚があるというが、それはどういうものだろうか?

 この話には、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で、いったん滅亡した播磨などの守護赤松氏の旧臣も大いに関わっている点に注意したい。

■「南帝御首塚」とは?

 現在の兵庫県加西市中野町には、浄土宗寺院の清慶寺がある。この寺には、「南帝御首塚」として伝わる墓が存在する。それはどういうものなのだろうか。

 首塚の碑文を見ると、「後醍醐天皇御曾孫 仁尊親王御陵 吉野御所奉禰南帝」と記されている。残念なことに、仁尊親王については不明である。

 近世に成立した『嘉吉軍記』(赤松氏が滅亡した嘉吉の乱を描いた軍記物語)には、次のように伝えられている(要約)。

南帝の首を播磨に持ち帰った河合茂賢は、庭にしばらく首を掛け置いていた。長町村の井戸の水で首を洗ったので、その井戸を「南帝御頭洗の井」と称した。この井戸は、忌々しいということで、寛文年間(16世紀半ば)に埋められた。また、中村助直という人物が、(南帝を)自分の領地である中野村に葬り跡を弔った。清慶寺の「南帝御首塚」というのは、葬った土が盛り上がった塚をいい、石碑ではない。

 南帝とは、後醍醐天皇の子孫ということになろう。しかし、曾孫とされる仁尊親王については、系譜にもあらわれずまったく不詳の人物である。

■『播磨鑑』などの記述

 近世に成立した地誌『播磨鑑』にも、この間の事情を記している。長禄元年(1457)の長禄の変(赤松氏が後南朝を討った事件)で活躍した中野山城主の小谷与次は、吉野の皇居で法親王を討ち取り、その首を持ち帰ったという。

 しかし、これは「土俗が誤って南帝塚と呼んでいる」とも記している。本当に南帝を討ち、首を持ち帰って塚に葬られたか否かは、不明なのであろう。

 姫路藩への上申書である元禄11年(1698)の『首塚之記』には、首塚が作られた経緯について記されている。

 この史料によると、古来より「南帝之首塚」の存在は知られていたが、その由緒に関しては、ほとんど痕跡が残っていないとある。

 わざわざ、吉野(奈良県吉野町)から文殊院の僧が訪ねて、「尊骸は吉野にあるが、首は中野村清慶寺にあると聞いた」として、由緒を調査した。

 ところが、その由来については「誰もわからない」とし、ただ言えることは「大変貴いものなので、粗略に扱うことがないように」とのことだった。

■結論

 このような経過からすると、赤松氏旧臣が長禄の変で赤松氏の再興を成し遂げ、彼らの活躍した話は地元で大いに語られるようになり、その証が必要になったと考えられる。その証が「南帝御首塚」ではないだろうか。

 その後、いつしか「南帝御首塚」が築かれたという話がどこからともなく、地元で噂となったと考えられる。

 やがて、「南帝御首塚」は地元民の崇敬を集めたものの、由緒すらわからなくなったと推測される。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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