松平信康は処刑されたのではなく、実は生きていたのか!? その真偽を探る
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、瀬名と松平信康が窮地に追い込まれた。その後、徳川家康は2人を処分したが、信康が生きていたという説があるので検討しよう。
天正7年(1579)9月15日、松平信康は武田氏に通じていたなどの罪によって、父の徳川家康から切腹を命じられた。信康の首は織田信長に送られ、のちに若宮八幡宮(愛知県岡崎市)に埋葬されたというのが通説である。しかし、信康は生きていたという説があるので検討しよう。
実は、このとき鵜殿某なる者が信康の代わりに切腹し、信康は難を逃れたという説がある。この説を唱えたのは、村岡素一郎氏(1850~1932)である。村岡氏は「家康は途中ですり替えられた」という説を唱えたことでも有名である。
そのカギを握るのは、当時、二俣城(静岡県浜松市)主だった大久保忠世である。実は、信康が切腹を行ったのが二俣城なのである。介錯は服部半蔵が務めたが、涙で刀を振り下ろすことができなかったというエピソードが残っている。
信康の遺骸は、家康によって清瀧寺(静岡県浜松市)に葬られた。しかし、江戸時代になると、幕府からの弔いは途絶え、小田原の大久保家が欠かさなかったと指摘する。なお、切腹を逃れた信康は、京丸(静岡県浜松市)という山奥に隠棲した。
あるとき、大名家の飛脚が東海道を下っていると、袋井、掛川付近で身なりの貧しい70歳くらいの老人に会った。老人は「今の将軍が誰なのか」、「土井甚三郎(土井利勝)は元気か」などと尋ねた。飛脚がこの話をすると、たちまち江戸中で話題になった。
この老人は天野景康ではないかと噂されたが、この時点で100歳を越えるので疑わしい。そこで、村岡氏は、この老人こそが信康ではないかと推理する。京丸に逃れた信康には、大久保氏から食料などが届けられ、50余年を生き抜いたという。
しかし、この説は単なる憶測にすぎず、明確な根拠があるわけではない。村岡氏の「信康生存説」は、「家康すり替え説」と同じく、検討にすら値しないものと考える。
主要参考文献
村岡素一郎『史疑 徳川家康事蹟』(民友社、1902年)