【その後の鎌倉殿の13人】北条泰時と異母弟・朝時は本当に仲が良かったのか?
寛喜3年(1231)9月、鎌倉の名越にある北条朝時の邸に「悪党」が侵入せんとして、返り討ちにあいます。朝時は邸を留守にしていましたが、その家臣が悪党をよく防いだのです。「朝時の邸が襲撃された」と聞いた異母兄の北条泰時(鎌倉幕府第3代執権)は、評議の途中でしたが、席を立ち、救援に向かうのでした。そうした泰時の行動を非難したのが、家人の平盛綱です。盛綱は「殿は重職にあります。先ずは、家人を先発させて、内情を確かめるようにすべきでしょう。今後もしこのようなことをすれば、世が乱れる基になります。世間からも非難されましょうぞ」と主君を諌めたのでした。
それに対し、泰時は次のように反論します。「そなたの申すところは尤もである。だが、眼前で、兄弟を殺されることがどうして人々の誹りを受けることになるのだ。そのようなことがあったら、重職など何の役に立とうぞ。武力は人を助けるためにある。私は、たった今、朝時が敵に囲まれてると聞いた。それは、他人にとっては小さな出来事かもしれない。が、私の心中では、その敵は建暦や承久の大敵と変わりない」と(鎌倉時代後期の歴史書『吾妻鏡』)。危難に陥っている弟を助けることの道理を泰時は説いたのです。ちなみに、泰時が言う「建暦や承久の大敵」とは、有力御家人・和田義盛(建暦3年=1213年、和田合戦にて敗死)と承久の乱(1221年。後鳥羽上皇挙兵)における官軍のことです。『吾妻鏡』の記述を見ると、泰時と朝時は仲が良さそうに思えます。が、『平戸記』(鎌倉時代前期の公卿・平経高の日記)1242年5月17日条には「兄弟(泰時と朝時)は日頃、疎遠であったのに」と記されています。『吾妻鏡』は北条氏美化の観点から編纂されている箇所もあるので、注意は必要です。朝時は、何れ兄にとって代わりたいと考えていた可能性もあるでしょう。