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大坂冬の陣の博労ヶ淵砦の攻防で、豊臣勢が敗れたのは薄田兼相が遊女と遊んでいたからだった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪(坂)城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、大坂冬の陣の模様が描かれていた。ドラマでは博労ヶ淵砦の攻防が描かれていなかったが、豊臣勢は敗北を喫した。その理由は、薄田兼相が遊女と遊んでいたからだったという。それが事実なのか考えてみよう。

 慶長19年(1614)に大坂冬の陣がはじまると、豊臣勢の主力の薄田兼相は牢人衆を率い、博労ヶ淵砦の守備を任された。博労ヶ淵砦は大坂城の西方に位置する重要な地点であり、徳川勢の蜂須賀氏が対峙していた。豊臣方は、兼相に大きな期待を寄せていた。

 しかし、兼相に掛けた期待は、意外にも裏切られてしまった。11月29日、蜂須賀勢が博労ヶ淵砦を攻撃すると、豊臣勢はほとんど戦うことなく敗北したのである。

 豊臣勢が負けた理由は実に衝撃的なもので、兼相が戦いの前日から遊女屋に通っていたからだった。大将がまともに砦を守っていなかったのだから、負けて当然ということになろう。

 博労ヶ淵砦の敗北により、兼相は「橙武者」と嘲笑されることになった。「橙武者」には、どういう意味があったのだろうか。そもそも橙は酸味が強くて、正月飾りにしか使えなかった。

 つまり、「橙武者」とは見掛けだけは立派だが、中身がないということになろう。兼相は立派な体格をし、武勇が優れていたが、しょせんは「見かけ倒し」だったということになる。

 ところで、兼相が遊女屋へ通っていたという事実は、たしかな史料では裏付けられない。兼相が遊女屋に通う「橙武者」だったというのは、『大坂陣山口休庵咄』に記述されている。

 もしかしたら、豊臣方の博労ヶ淵砦の攻防であっけなく敗れたので、その不甲斐なさを兼相に押し付けた可能性もあろう。残念ながら、兼相が遊女屋に通っていたことを示すたしかな史料は、ないのである。

 兼相の大失態は、翌年の大坂の陣(夏の陣)でも再現された。慶長20年(1615)5月6日の道明寺の戦いで、兼相は先に出陣した後藤又兵衛に続いて、戦地に到着する計画だった。

 ところが、当日は濃霧で行軍が予定どおり進まず、兼相が戦地に着いたときには、すでに又兵衛は伊達政宗らの軍勢と戦い、戦死したあとだったのである。これでは、まったく話にならない。

 濃霧という不測の事態といえるかもしれないが、やはり失態といわざるを得ない。その後、兼相も水野勝成の軍勢と交戦し、勝成の家臣の河村重長に討ち取られたという。兼相の無念の最期だった。

 しかし、本多・伊達両氏の家譜には、兼相の首を取った人物について、それぞれの家臣であると記載されている。一説によると、兼相は大坂夏の陣後、薩摩国へ逃亡したというが、それは虚説だろう。たしかな史料で確認できない。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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