不祥事、失政、素行の不良などにより、追放された3人の武将
世間では会社などで不祥事があると、ときとして懲戒免職といった厳しい処分を科されることがある。中世においても不祥事、失政、素行の不良などにより、追放された武将がいたので、そのうち3人を紹介することにしよう。
◎源義経(1159~1189)
義経は、鎌倉幕府初代将軍の頼朝の弟である。義経がいなければ、幕府はできなかったかもしれない。それほど義経は貢献したのだが、最終的に頼朝から追放され、奥州平泉で殺害された。
それには理由があった。頼朝は御家人らに無断で任官してはいけないと厳命していたが、義経はその禁を破り、後白河法皇から左衛門少尉、検非違使に任じられ、さらに従五位下に叙され、院の昇殿を許可された。
また、義経は見事に平家を滅亡に追い込んだが、安徳天皇は入水して亡くなり、三種の神器の一つの宝剣は海中に沈んでしまった。こうした複数の義経の失態が問題視され、追放という憂き目に遭ったのである。
◎武田信虎(1494~1574)
信虎は、子の信玄によって追放された。そもそも信虎の悪評は高く、かわいがっていた猿を家臣に殺されたので、手討ちにしたという話すらある(『甲陽軍鑑』)。
しかし、こうした話は二次史料に書かれたものが多く、信虎を貶めようとした意図が感じられ、にわかに信が置けない。
信虎が追放された理由については諸説あるが、信虎の領土拡大志向により、配下の者の負担が増加したこと、また飢饉への対策が十分でなく、多くの人が不満を抱いたのが有力視されている。
そこで、武田家中では信虎を追放し、子の晴信(信玄)を擁立したと考えられる。
◎佐久間信盛(1528~1582)
信盛は織田信長の重臣であり、大坂本願寺の攻略を任された。しかし、信盛は十分な成果を挙げられず、戦いは10年も続いた。戦後、信盛は信長から譴責状を突きつけられた。
この譴責状は19ヵ条で構成され、信長が自筆で書いたという(『信長公記』)。内容は、信盛の失態を取り上げて、手厳しく非難したものである。
折檻状では、戦闘での工夫がないこと、配下の者に知行を与えずけち臭いことを挙げ、「信長の代になって、信盛は30年ものあいだ奉公してきたが、〈比類なき働き〉といえるような実績は一度もなかった」とまで言い放った。
その結果、信盛・信栄父子は高野山へ追放されたのである。