一行を苦しめた赤軍、病魔、雪 バイカル湖の大シベリア冬季行軍
ロシア革命は数ある革命の中でもとりわけ流血の多かった革命として知られています。
そんな中でもとりわけ犠牲者を多く出したのは、バイカル湖の大シベリア冬季行軍です。
この記事ではバイカル湖の大シベリア冬季行軍の悲劇の軌跡について紹介していきます。
一行を苦しめた赤軍、病魔、雪
1920年の初頭、白軍はクラスノヤルスクへ向かう途中、大きな試練に直面しました。
ロシア内戦の混乱は極まっており、シベリア横断鉄道を支配していたチェコ軍の支援も得られなかったのです。
物資も乏しい中、厳しい冬の中での撤退が続いていました。
クラスノヤルスクに接近すると、労働者がボリシェヴィキの指導の下で蜂起し、さらに白軍内部でも動揺が広がりました。
守備隊を率いるブロニスラフ・ジネヴィチ将軍は「内戦戦争」というスローガンを掲げ、ボリシェヴィキとの和平を模索したのです。
彼はカッペル将軍にも同じ行動を求めましたが、カッペルはこれを拒否します。
1920年12月31日、ジネヴィチの守備隊を市から撤退させるよう命じました。
しかし、都市内にはまだチェコ軍が駐留していたのです。白軍は彼らからの支援を望んでいましたが、それも実現せず、戦況は悪化の一途をたどりました。
1920年1月5日から6日にかけて、白軍はクラスノヤルスクを迂回して駅に向けて進軍しましたが、北方のドロキノ村近くで赤軍と激しい戦闘が発生しました。
この戦いでは白軍の有名な第1シベリア突撃旅団が壊滅するなど、多大な犠牲を伴いましたが、エニセイ川を渡り、さらに東への移動を余儀なくされたのです。
この戦闘で戦闘能力を保持していたおよそ1万2000人の白軍部隊は、何とか脱出に成功しましたが、同数の兵士がクラスノヤルスク守備隊に降伏しました。
白軍の士気は極度に低下しており、兵士の多くがチフスに感染し、戦力は著しく損なわれていたのです。
1月7日には、南方から第2・第3白軍の残存部隊が合流し、総勢3万人に達しました。
しかし、このような大規模な軍勢を維持し続けるのは困難であり、数個の縦隊に分かれて撤退することが決定されたのです。
各縦隊は孤立した状態で進軍を続け、敵との衝突を避けながら進みましたが、チフスの流行が兵士たちを蝕み、一部の部隊では全兵士が病に倒れるという悲劇が起きます。
薬もなく、病気の兵士たちは数日間ソリで運ばれましたが、多くの者が道中で命を落としました。
この病気は、白軍だけでなく、地元住民や追撃していた赤軍第5軍にも大きな被害を与えたのです。
白軍は撤退中にそりを利用しようとしましたが、1月17日、ヴォイチェホフスキ将軍は厳格な命令を発し、馬の徴発に関する規則を制定しました。
馬を無駄に徴発する者は絞首刑に処すという厳しい規則でしたが、これは部隊が生き残るために必要な措置だったのです。
この間、カッペル将軍率いる縦隊はエニセイ川沿いを北へ進み、シベリア街道に沿って進軍するサハロフ将軍の縦隊との合流を目指しました。
厳しい霜と深い雪に覆われた道は非常に困難で、特に105kmにわたるタイガを越える区間は、ほとんど無人の土地を進まねばならず、兵士たちにとって過酷な試練となったのです。
カン川沿いでは、いくつかの部隊が分離行動を取り、特にペルクーロフ将軍率いる部隊は、エニセイ川を北上し、厳寒のタイガを単独で進む伝説的な冬季行軍を行いました。
この部隊は3000キロ近くを歩き続け、凍傷や飢餓、パルチザンとの戦闘に苦しみながらも、最終的にはバイカル湖まで到達しました。
しかし、過酷な環境による損耗は甚大で、多くの兵士が病死や凍死により命を落とし、生き残った者たちは衰弱しきっていたのです。
1月10日までに、カン川沿いの最も困難な区間を渡り終えましたが、この時、カッペル将軍は足を凍傷で負傷し、さらに低体温症による肺炎を発症しました。
それでも彼は部隊を率い続け、ヴォイチェホフスキ将軍に一部の権限を委任するに留まったのです。
1月12日から14日、カンスクでの蜂起と守備隊がボリシェヴィキ側に寝返ったことを受け、カッペルの部隊は南からクラスノヤルスクを迂回し、厳しい冬の条件下でシベリアの高速道路に沿って移動を続けました。
この過酷な撤退戦の末、1920年1月19日、白軍はザムゾル駅に到達し、イルクーツクでの蜂起の情報を得ました。
これにより、白軍は追撃を逃れることに成功しましたが、彼らの苦難は続いたのです。
クラスノヤルスク以降の赤軍の追撃は停滞し、補給の問題が赤軍を足止めした一方、白軍の壊滅的な状態は、最終的にはパルチザン軍に委ねられることとなりました。
この撤退の過程は、特にカン川沿いの移動が困難を極めました。
厚い雪に覆われた川の下には凍らない温泉が流れており、凍てつく霜の中、白軍は危険な移動を強いられ、多くの兵士が力尽きたのです。
カッペル将軍も凍傷で命を落とし、白軍の士気は完全に崩壊していきました。
この壮絶な撤退戦は、白軍のシベリアでの敗北を象徴するものであり、彼らの戦闘力は著しく低下していきました。
それでも彼らは最後まで抵抗を続け、最終的に1920年3月にはチタに到達しましたが、疲れ果てた兵士たちはもはやかつての白軍ではなかったのです。