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徳川家康が真田昌幸・信繁父子を恐れなかった当たり前の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」では、いよいよ大坂冬の陣が開戦された。一説によると、徳川家康は大坂冬の陣に際して、真田昌幸・信繁父子を非常に恐れていたという。この話は史実として認めていいのか、検証することにしよう。

 慶長19年(1614)の大坂冬の陣の直前、信繁は豊臣方に与することになった。信繁の大坂城入城は、豊臣方に歓迎された一方、徳川方を恐怖のどん底に陥れたという。家康は関ヶ原合戦などで父の昌幸に散々苦しめられたので、特に苦々しく感じていたというのである。

 家康が昌幸・信繁父子を憎んでいたのは理解できないこともないが、恐れたというのは事実なのだろうか。以下、信繁が九度山(和歌山県九度山町)を脱出し、大坂城に入城した時の逸話を取り上げることにしよう。

 大坂冬の陣が近づくと、家康は「真田(信繁とは書いていない)が大坂城に入城した」という情報を知ると、「はっ」と驚いた表情を見せ、そのまま報告のためにやって来た使者のところまで行った。

 そして、家康は戸に手を掛けたまま、「真田が籠城したというのか。それは親(昌幸)か子(信繁)か」と質問したといわれている。その間、戸がガタガタ鳴るほど、家康は震えていたという。このように家康は昌幸・信繁父子を恐れ、大坂城へ入城したとの一報に大変狼狽したと伝わる。

 報告した使者が畏まって「『昌幸は去年の夏に病死し(実際は3年前の間違い)、子の信繁が大坂城に籠城しました」と回答した。すると家康は「ほっ」と息をついて、少しばかり安堵した。

 戦巧者の昌幸ならば大いに悩んだことだろうが、子の信繁ならば、まだマシだと思ったのかもしれない。ところが、家康は自身の不様な姿を恥ずかしいと感じたのだろう。家康は秀忠に将軍職を譲ったとはいえ、大御所として君臨していた。

 そこで、家康は身震いした理由について、「私が身震いしたのは、真田に恐怖したのではない。関ヶ原合戦後、心の広い私は、昌幸・信繁父子を処刑しようとしたが、信之(昌幸の子)が抜群の働きの恩賞に代えて助命を訴えてきたことを認め、2人を助命したのである。これが仇になった。信繁はそのときの恩義を忘れて再び籠城したので、怒りに打ち震えたのだ」と弁解したのである。

 家康は真田を恐れたから震えたのではなく、恩知らずの信繁に腹を立て、怒りで打ち震えたと苦しい言い訳をしたのだ(『幸村君伝記』)。むろん、家康が真田を恐れたというのは、後世の創作に過ぎず、良質な史料で裏付けることはできない。

 大坂の陣後、多くの人々は信繁の敢闘を称え、家康は「腹黒い狸親父」だと嫌った。その結果、家康を貶めるエピソードが創作され、逆に信繁は持ち上げられた。普通に考えると、家康が一介の牢人の信繁を恐れるはずがないのである。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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