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いよいよ大坂夏の陣が開戦、戦費の調達に苦労した大名たちの懐事情と旨味のない戦争

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪(坂)城。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、いよいよ大坂夏の陣が開戦する模様が描かれていた。徳川方は豊臣家を滅亡に追い込むべく、諸国の大名に大坂への出陣を命じた。しかし、諸大名の懐事情は厳しく、歓迎されるようではなかったので、その辺りを紹介することにしよう。

 慶長20年(1615)4月になると、大坂夏の陣が起こるとの風聞が各地に流れ、「大坂城が徳川方に攻撃される」、あるいは「徳川方の軍兵が上洛して来る」との噂が京都中を飛び交った(『中院通村日記』など)。

 同時に、大坂城周辺の状況も慌しくなった。徳川方による大坂城攻撃の噂が流れると、堺あたりでは騒動が勃発し、人々は家財や妻子を引き連れて他国へ逃亡するというありさまだったという(『浅野家旧記』)。人々の動揺は、隠すことができなかった。

 さらに、本多正純は土佐の山内氏に対して、大坂へ渡海する船、商売船を乗り入れることを禁止した(「御手許文書」)。山内氏は年貢米を大坂近辺で換金しようとしたのだが、それすらできなくなるまでになっていた。

 すでに大坂城での戦いが予定されているので、無用な混乱を避けるためであろう。同時に、換金した米を豊臣方に売却されることも避けたかったに違いない。

 肥前の鍋島氏は徳川方から出陣を要請され、兵庫、西宮、尼崎への陣を構えるよう伝えられていた。その際、米やそのほかのものでも、徳川方が費用の一部を負担する旨が書かれていた。

 鍋島氏は遠方からの出陣なので、財政に余裕がなかったと推測される。鍋島氏に限らず、諸大名は多くの軍勢を率いていたのだから、兵糧や武器などの合戦に伴う負担の大きさは想像に余りある。

 財政事情が厳しかったことは、吉川家や毛利家も同じだった(「吉川家文書」)。吉川広家は両家ともに兵糧の負担が重くのしかかり、財政を担当する奉行衆が頭を抱えていると書状に記している。

 特に、毛利家は関ヶ原合戦の敗戦で約90万石も知行を減らされたが、家臣の数はほとんど変わらなかったので、財政事情は最悪だったといえる。しかし、両家とも、徳川方の出陣要請を決して断ることはできなかった。

 4月1日付で、徳川方が武川衆に宛てた書状が残っている(『譜牒余録』)。武川衆とは、もと甲斐武田氏の配下にあった軍団で、武田氏滅亡後は柳沢氏(武田氏旧臣)が率いていた。

 内容は大坂出陣を促すものであり、軍役として1万石につき、200人の兵を率いることが命じられている。兵卒以外にも、人夫として1万石につき300人の扶持を渡すとし、また路次中の扶持として銀子を与えると記されている。

 大坂夏の陣は諸大名にとって、大きな財政的な負担をもたらすことになったが、どの大名も出陣要請を断れなかったのである。それは、絶対命令だった。

 しかも、豊臣方に勝利したところで、与えられる恩賞は乏しいことが予想された。徳川方に与した諸大名は、豊臣家から取り上げた所領を分配するからだ。決して旨味のない戦いだったのである。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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