本能寺の変の前後、織田信長の居城・安土城はどういう状況にあったのか
過日、天正10年(1582)6月の本能寺の変後、安土城(滋賀県近江八幡市)が意図的に破壊されたとの報道があった。こちら。これを破城(はじょう)という。
本能寺の変前後の安土城については、関係する史料が乏しく、その状況はほとんどわかっていない。本能寺の変前後、安土城はどういう状況にあったのか、考えてみることにしよう。
天正4年(1576)、織田信長は安土城の築城に着手し、3年後に完成させた。それまで信長は、岐阜(岐阜市)に本拠を置いていたが、安土城の完成を機にして、居を移した。
信長が安土城に本拠を移した理由はいろいろと考えられるが、朝廷のある京都に近いこと、琵琶湖水運の掌握、北陸の一向一揆の牽制など、さまざまな理由が考えられる。
安土城は近世城郭の先駆けとされ、五層七重の天主はその象徴とされている。石垣は今も残っているが、穴太衆(あのうしゅう)によって、積まれたものである。
内部の柱には金箔が貼られ、壁には狩野永徳の絵が飾られていた。また、座敷は畳敷きで、書院、納戸、台所などもあった。安土城には城下町も整備され、家臣の住居も建てられていたのである。
織田信長が上洛したのは、天正10年(1582)5月29日のことである。安土本城の留守衆は、津田源十郎ら7名が務めた。また、二の丸の御番衆には、蒲生賢秀ら14名が任じられた。
信長は彼らに城の警固を任せると、小姓衆20~30人を召し連れて上洛した。上洛後、そのまま中国方面に出陣する予定だったという(以上、『信長公記』)。当時、配下の羽柴(豊臣)秀吉が備中高松城(岡山市北区)で毛利方と対峙していた。
天正10年(1582)6月2日、織田信長は本能寺で明智光秀に襲撃され、自害して果てた。その直後、光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れ、逃亡中に土民によって殺害されたのである。
6月15日、安土城の天主およびその周辺の建造物は焼失した(『兼見卿記』)。しかも報道によると、のちに人為的に破壊された形跡があるので、当時の安土城を窺い知る手掛かりを失ったのである。
焼失した理由については、次のように諸説ある。『秀吉事記』、『太閤記』によると、明智秀満軍が敗走の際に放火したと伝わる。しかし、秀満は6月15日に坂本城(滋賀県大津市)で堀秀政の軍に包囲されていたので、この説は誤りであると考えられている。
宣教師の記録によると、織田信雄が明智軍の残党を炙り出すため放火したと書かれている。このほかに土民の放火や落雷による火災などの説もあるが、真偽は不明である。文献上でわかることは限られているが、今後の発掘調査によって、さらに研究が発展することを願いたい。