【戦国時代】武田家を裏から勝利に導いた影の集団!信玄が召し抱えた3つの特殊部隊とは?
戦国大名の中で“最強”の呼び声も高い武将、武田信玄。その強さの中核は何といっても正規軍の勇猛さや、戦術の冴えにありました。
しかし、もう一つ武田軍の強さを押し上げていたのは、合戦が始まる前から勝利への道筋を構築していた、言うなれば影の集団でした。
その任務の性質からも、歴史上あまり表立っては名前を知られていない人々ですが、いったいどのような組織だったのでしょうか。
隠密集団“三ツ者(みつもの)”
分かりやすく言えば、武田家に仕える忍者集団です。“透破(すっぱ)”、“甲州忍者”など、他にも様々な呼称で表されることがあります。
なお三ツ者という呼び方は、この言葉でそのまま言われていたというよりは、3つの集団の総称と言われています。具体的には遠方から敵の情報を調べる間見(あいみ)、近くの敵を偵察する見分(みわけ)、敵中に潜入して情報を得る目付(めつけ)です。
戦国時代の武田家は周囲を上杉家、北条家、今川家といった強豪に囲まれ、後半には織田家や徳川家と相対する歴史を辿っています。いずれも簡単に隙を見せないどころか、油断すればあっという間に裏をかかれてしまう相手ばかり。
その細かな動向を知るため、三ツ者がもたらす情報がいかに重要であったか、想像に難くありません。忍者と言っても覆面に黒づくめをした、いかにもな服装で飛び回るイメージよりは、実際には僧侶や商人や村人など、それとは分からない格好で溶け込んでいたと思われます。
工兵集団“金堀衆(かなほりしゅう)”
その名の通り、もともとは鉱山で金・銀・銅など資源の採掘を生業とする人々で、“金山衆”という呼称でも伝わっています。
武田家の本拠地である甲斐の国は多数の金山が存在しており、強力な軍勢を維持するため、軍資金の産出は極めて大切な1つでした。そのため信玄は領内の金堀衆を、とくに重要視したといいます。
また採掘の技術を持っていたということは、そうした工事のエキスパートでもあり、彼らはしばしば戦いの場にも出陣し、工兵として武田軍の勝利に大きく貢献したと伝わっています。
まともに攻め立てては被害が甚大となる堅固な敵城に、金堀衆が外から城内へのトンネルを掘削。侵入して火を放ったり、櫓の破壊を行ってのかく乱。また水の手を切り、干上がらせて降伏に持ち込むなど、からめ手で大活躍したと言います。
また領内の川の氾濫を、斬新な治水で克服した“信玄堤”の工事にも金堀衆が活躍したと伝わり、まさに武田家を裏方から大きく支えていた集団でした。信玄も金堀衆には税金の免除や商売の許可など、さまざまな特権を与えて優遇していたとも伝わります。
諜報集団“歩き巫女”
武田信玄と言えば豪気なイメージがある武将ですが、大局を見据えて用心深く戦略を練る一面もありました。そのため前述のような隠密による情報を重視していましたが、それは隣国のみならず遠方の大名にも及んでいました。
そのため三ツ者と合わせて運用していたと伝わる集団が、“歩き巫女”です。信玄はあるていど領地を広げると、信濃の祢津(ねづ)村という場所に、巫女を育成する道場を設立したと言います。
戦乱の続く当時はたび重なる合戦により、身寄りのない孤児や捨て子も増えていました。巫女たちは修行の傍ら、そうした子らを集めて生活の面倒を見たと言います。これは福祉活動にあたりますが、一方で何人かの巫女は従者を引き連れ、全国を練り歩いていました。
各地で祈祷や伝道を行う傍ら、じつは諜報員としての役割も兼ねていたと言います。戦国の世にあっては、各大名とも領内への怪しい人物の出入りは目を光らせますが、女性の巫女たちは警戒されにくい存在です。
また各地を巡って人々と接すれば「○○領は不平不満が多く、結束が揺らいでいる」「大勢がある地域に移動している、合戦を始める可能性が高い」など、重要な話が自然と耳に入り、武田家の外交や軍略にとっても、重要な指針となります。
なお大河ドラマ“どうする家康”では巫女が、一向一揆を裏で扇動するシーンも描かれていました。そこまでの事を手がけていたかは定かではありませんが、歩き巫女の情報をもとに三ツ者など、他の組織が何らかの工作を行っていた可能性も、あり得たかも知れません。
戦国最強の裏方たち
以上、信玄の躍進を影からお膳立てしていたとされる、3つの組織をご紹介しました。武田の正規軍が“侵略すること火の如し”だとすれば、彼らは“静かなること林の如し ”の間に、動いていた集団とも言えるでしょう。
本当の強者とは表の実力も目立ちますが、一方で何もしていないように見える時にこそ、着々と勝ち筋を築きあげているものです。
戦国時代は時々刻々と変わる情勢の中、表面の火花の散らし合いもドキドキしますが、ときにこのような裏側に着目してみるのも、面白い1つです。