止めておけばいいのに、織田信長に激しく抵抗した3つの寺院とは
今や宗教弾圧は、あまり行われていないだおる。戦国時代の寺院の中には、織田信長に激しく抵抗し、悲惨な結末を迎えることがあったので、そのうち3つを紹介することにしよう。
◎大坂本願寺(大阪市中央区)
元亀元年(1570)9月、本願寺の顕如は、織田信長が大坂本願寺を破却しようとしていると述べ、各地の門徒に信長を討つよう檄を飛ばした。こうして大坂本願寺と信長との10年にわたる戦いがはじまった。先に攻撃を仕掛けたのは、大坂本願寺だったといわれている。
その後、信長は大坂本願寺から和睦の申し出があると、その度に応じていたが、結んだ和睦を先に破るのは大坂本願寺のほうだった。結局、大坂本願寺は味方だった波多野、別所、荒木などの諸氏が次々と信長に敗れたので、天正8年(1580)3月に信長と和睦したのである。
◎比叡山延暦寺(滋賀県大津市)
かねて比叡山延暦寺は織田信長と対立し、反信長の朝倉義景、浅井長政に与同していた。元亀2年(1571)9月、業を煮やした信長は、延暦寺の焼き討ちを決意した。延暦寺は信長の動きをあらかじめ察知したので、攻撃を中止するよう信長に嘆願した。
信長は延暦寺の要請を無視し、延暦寺の麓の坂本や大津に火を放った。堂宇などはすぐに焼き払われ、僧侶らは逃げようとしたが、捕らえられて殺害された。史料によって数は異なるが、数千人が殺されたと伝わっている。焼き討ちには、明智光秀も関与していた。
◎高野山(和歌山県高野町)
かねて高野山は織田信長に反抗的で、足利義昭と誼を通じ、信長に敗れた荒木村重の残党を匿うなどしていた。信長は使者を高野山に送り込んだが、殺害されたという。逆に、織田方は高野聖を捕らえ、殺害するなどしたので、ついに両者は交戦に至ったのである。
天正9年(1581)1月、信長は一族の織田信張に高野山攻めを命じ、1300余名の高野聖を捕らえ、京都の七条河原で処刑した。翌年、信長は甲州征伐に注力する一方、信張に代えて子の信孝を総大将にした。結局、信長が本能寺の変で横死し、高野山との戦いは終結したのである。