三木合戦。羽柴秀吉の激しい兵糧攻めで城兵が飢えに苦しんだのは、合戦の後半だけだった。
「腹が減ってはいくさができぬ」とはよく言うが、現代ならばいくさを仕事などに置き換えるのだろう。三木合戦と言えば、秀吉による厳しい兵糧攻めが有名であるが、本当に城兵が2年余も耐え抜いたのか考えてみよう。
三木城(兵庫県三木市)主の別所長治は、長らく織田信長に従っていた。そんな長治が信長や秀吉に不信感を抱き、離反したのは天正6年(1578)2月のことである。戦いが終結したのは、2年後の1月なのだから、合戦は約2年もの長きにわたったということになろう。
三木合戦と言えば、「三木の干し殺し」と称されるように、秀吉による兵糧攻めが有名である。後述するとおり、三木城は兵糧の搬入が断たれたので、城兵が飢えで地獄のような苦しみを味わったことで知られている。とはいえ、それが2年も続いたのかと言えば、疑問が残る。
戦いは当初、膠着状態にあり、秀吉が大量の付城を構築し出したのは、天正6年(1578)7月のことである。これにより兵糧の搬入ルートを断とうとしたのである。その2ヵ月後、秀吉は三木城への兵糧搬入を遮断するよう命じた。
その後、毛利方は三木城のピンチを知ると、物資の支援を行おうとし、秀吉がそれを阻止する動きが見られる。戦況は、徐々に秀吉有利に傾いていった。天正7年(1579)9月、毛利方が三木城に兵糧を搬入しようとし、秀吉勢と交戦した。搬入が成功したのか否かは不明である。
天正7年(1579)10月、秀吉は三木城からの助命嘆願を受け、助けるか兵糧攻めにするか検討した。つまり、同年9月くらいまでは、三木城内に兵糧があったが、だんだん尽きかけたので、別所氏は音をあげたのだろう。先述した毛利氏の兵糧搬入は、失敗した可能性が高い。
『播州御征伐之事』などには、天正7年(1579)10月から三木城内の兵糧不足が深刻となり、餓死者が出たと記されている。城兵は牛馬鶏犬を口にし、最後は人肉を食らったと書かれている。そして、長治が降参したのは、翌年1月のことである。
私たちは別所方が飲まず食わずで2年余も戦い抜いたようにイメージしていたが、実際は備蓄した兵糧や毛利氏からの兵糧搬入により、天正7年(1579)9月頃までは大丈夫だったようだ。
別所方はその翌月から兵糧がつき掛けたので助命を嘆願し、翌年1月に降参したことになろう。つまり、実質的な兵糧攻めは、合戦終盤の約3・4ヵ月ということにならないだろうか?