田代まさしさんの薬物事件出所後初の記者会見に行ってきた
2015年3月18日、田代まさしさんが行った記者会見に足を運んだ。その後、ファンを対象にしたトークイベントも同じ阿佐ヶ谷ロフトAで開催。今、編集部に帰ってこの原稿を書いている。
会見は、田代さんのほかに、彼がいま関わっている民間の薬物依存リハビリ期間「ダルク」の近藤恒夫代表も同席。ダルクは、薬物依存当事者が他の当事者のリハビリをサポートするという機関で、近藤さんも元薬物依存者だ。発足から今年で30年、全国に60カ所の施設を持っている。田代さんは出所後、ダルクで本格的なリハビリプログラムに参加する一方で、近藤さんと一緒に薬物依存者のために各地の施設に出向いて自分の体験を語るといった活動をしている。
会見で強調していたのは、「僕は過去の薬物事件の時は、『もう二度とやりません』と言いながら、自分の決意さえあれば薬物依存から脱することができると思いこんでいた。でも薬物依存の怖さはそういう決意だけでは克服できないことだ。以前は、また手を染めてしまうと家族やファンに迷惑がかかる、その人たちのためにがんばろうと思っていた。しかし、逮捕後に近藤さんの本を読んで自分が病気なのだと認識し、今は自分のためにがんばろうと考えている」。つまり、自分が依存症であるという現実を受け入れるところから再出発しようと思っていると語った。
薬物依存は逮捕されて薬物から遠ざかったとしても病気が治ったわけではない。その依存症という病気と自分がどう向き合い、薬物に依存しない生活をどうやって1年また1年と続けていくかという戦いだ。だからダルクは、たとえ再び依存者が薬物に手を出してしまったとしても、それを責めたり警察に通報するのでなく、粘り強く治療を継続していくことをサポートする。「薬物をやめるのは簡単だ。難しいのはやめ続けることだ」というのが近藤さんのモットーだ。「薬物依存はうつ病などと同じ病気なんです。うつ病の人がいたら、まず治療を勧めるのが普通で、いきなり解雇したりしないでしょう。だから薬物依存も同じようにまず治療を考えるべきなんです」とも言う。
そういう現在の治療の状況について田代さんは自分の口から説明した。控室には田代さんの妹たちや、他のダルクのメンバーも駆けつけた。実はダルクと田代さんをつないだのは私だ。その前の逮捕の時も田代さんをサポートしてきた私にとって、田代さんが再び薬物で逮捕されたのは大変なショックで、これはもう根本的に治療に取り組まない限り、更生や社会復帰はありえないと考えた。私なりに必死になって、薬物依存の専門家にあたり、ダルクに連絡して、横浜の拘置所に収監されている田代さんに接見し、ダルクの治療プログラムに契約することを説得した。
最初は気乗りしていなかった田代さんだが、その後、ダルクの支援を受け、今はそのスタッフとして働くまでに治療に専念するようになった。一緒に闘った田代さんの妹たちとも久々に会い、あの逮捕直後の大変な状況を思い出して、思わず目がウルウルとしたものだ。田代さんは『創』の連載執筆中に二度にわたって逮捕されており、私は田代さんの前の逮捕の時も、中野警察署にほぼ毎日接見に通い、裁判に情状証人として出廷もした。そういう10年以上にわたる田代さんの薬物依存との闘いに密着して来た立場から、きょうの会見は感慨深いものがあった。
今回の会見は、田代さんがリハビリについて語ったものをコミックエッセイにした『マーシーの薬物リハビリ日記』の刊行発表も兼ねていたが、田代さんは2009年に創出版から『審判』という著書も出している。その『審判』のサイン会に来たファンにまじった売人が再び田代さんに薬物のパッケージと連絡先を書いた紙片を渡したのがきっかけで再び2010年に薬物に手を染めることになった。その意味でも4年前の逮捕は私にとって衝撃だった。
その後、接見や裁判の経過については、2010年から11年にかけて『創』に本人の手記や私のレポートを掲載した。今回の報道にあたって、それらをなるべくネットで公開することにした。以下に掲げるのは、田代さんの逮捕直後に書いた記事の抜粋だ。公判の経過については『創』2011年9・10月合併号の記事を「ヤフーブログ雑誌」に公開した。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150318-00010001-tsukuru-soci
前の逮捕や裁判からもう4年以上も経つので、正確な情報をなるべく利用できるようにと考えた。以下、逮捕当日の自宅での家宅捜索の様子や、田代さんの妹2人と私とでその夜、一緒にテレビのニュースを見、知人から次々と心配してかかってくる電話に妹が号泣した話などを書いている。以下、掲載記事の抜粋だが、ぜひ読んでいただきたい。
逮捕直後の2010年11月号の記事
本稿を執筆している2010年9月27日現在、残念なことに田代まさしさんの接見禁止は解けていない。既に弁護人による接見は4回行われている。薬物事件でこんなに接見は行われないのが普通だが、田代さんが精神的に落ち込んでいることは明らかだし、万が一自殺など考えては、と心配してのことだ。
その弁護人は前回2004年の事件の時と同じ弁護士だ(前回の裁判で私は証人として出廷した)。最初、18日に別の当番弁護士が接見したらしいが、その夜、妹さんからの依頼で接見したこの弁護士を、田代さんは選任した。
接見禁止が予想外に長くなっているのは、一緒に逮捕された女性の自宅から大量の薬物と100本ほどの注射器が押収されたためだ。数百回分の使用量と言われ、どういう経緯でそんなに大量の薬物が購入されたのか、警察はその入手経路も含めて捜査を続けているという。
私は田代さん以外にも、薬物依存の様々なケースをこの間、見聞きしてきた。三田佳子さんの二男とは今でもつきあっているし、元オリンピック体操選手・岡崎(旧姓)聡子さん(服役中)とは今も手紙のやりとりを行っている。だから、依存症の克服が簡単ではないことは理解しているつもりだった。でも、それにしても今回の逮捕には驚いた。
田代さんは一緒に暮らしている妹さんを始め、彼の社会復帰をサポートする大勢の友人知人に囲まれていた。地上波のテレビへの復帰は無理としても、この1年ほどは、ライブはもちろん、ネットやCS放送への出演も増え、仕事内容も以前の芸能活動と同じようなものが増えていた。薬物依存から社会復帰するのは並大抵の苦労ではないのだが、田代さんの場合は、この2年余で環境はかなり改善されつつあったと言ってよい。
だからこそ、今回の逮捕を知った時には絶句した。今度手を出したら再起不能だと周囲も本人も考えていたし、常に誰かが傍にいるという環境だったにもかかわらず手を出してしまうというのは、理解を超えた事態といってよい。しかも、この夏には『帰ってこいマーシー』(リーダーズノート出版)という、田代さんの復帰を応援する本まで出版されていた。その直後に再び逮捕というのは、誰にも想定できない事態だった。
衝撃的だった逮捕直後の表情
田代さん逮捕の事実を知ったのは9月16日の朝、フジテレビの「とくダネ!」を見てだった。前田忠明さんが「僕もまさかと思ってこの本に協力したんですよ」と、『帰ってこいマーシー』を手に怒っていた。聞けば、その日の午前2時頃、横浜の赤レンガパークの駐車場に車を停めていた田代さんと女性が、警察の職務質問にあって、薬物所持の疑いで現行犯逮捕されたのだという。
最初は信じられず、すぐに田代さんの妹さんにメールを打った。ただちょうどその日、知人が大きな手術を行うために二人の妹さんは病院に行っており、午後になるまで連絡はとれなかった。
そうするうちに次々と本誌編集部や私の携帯電話にコメント取材の依頼が入ってきた。その日は予定がびっしり入っていたため、テレビの取材は断ったが、スポーツ紙などの電話取材には応じた。
田代さんは2004年9月の逮捕の時も車に乗っていたところを職務質問された。今回の逮捕についても、偶然にしては出来すぎている、内偵捜査がなされていたのではないか、という声もある。
真相はわからない。ただ、どうも職務質が偶然なされたとしてもおかしくない状況ではあったらしい。というのも、11月に海外の要人を招いてAPEC(アジア太平洋経済協力会議)が横浜で開催されることになっており、現地は厳重なテロ対策の警備態勢が敷かれ、逮捕現場の駐車場では、日中から職務質問がなされていたという。まして夜中に車を停めて中に男女がいるというのでは、警戒網にかかるのも無理はなかった。
実際、横浜には全国の警察から応援部隊が来ていたようで、田代さんに職務質問を行ったのは福岡県警の警察官だった。名前と職業を訊かれ、身分証の提示を求められて田代さんは保険証を示したというが、そこに書かれた名前を見て、警察官も田代さんであることがわかったという。
そして身体検査を受けた結果、ズボンと下着の間に入れていた袋からコカインが発見された。同乗していた女性からも覚せい剤が見つかり、2人とも麻薬取締法違反容疑で逮捕されたのだった。報道では、コカインが見つかった時、田代さんは自分が使用するために持っていたことを認め、女性は自分が渡したと言ったという。女性が田代さんをかばったかのように思えるシチュエーションなのだが、実際はそうでなく、女性は田代さんに頼まれて入手し、自分が渡したと述べたということのようだ。
2人は最初、神奈川県警水上署にて逮捕され、女性はそのままそこに留置されたが、田代さんはそこから神奈川県警本部の留置場に移送された。マスコミで一斉に報道された田代さんの憔悴しきった映像は、この時に撮影されたものだ。
逮捕の夜、妹さんは号泣した
逮捕当日の午後、連絡がついて、私は、下の妹さんと田代さんが生活していたマンションに向かった。妹さんが借りたマンションに田代さんが同居していたのだが、そこに報道陣が押し掛け、入れない状態だと聞いたからだ。マンション入り口に群がった報道陣は、出入りする人物を誰何していたようで、妹さんの娘さんも声をかけられたという。
そのマンションで撮影された映像は夕方のニュースで放送されたが、ぼかしが少しかかっているとはいえ、建物も映されていたし、住民にコメント取材を行っている局もあった。せっかく田代さんが同居していることを近隣に伏せて生活していたのに、この無神経な報道は、妹さんの家族のプライバシーを容赦なく暴くものだった。
夕方、妹さんとそのマンションに入ろうとした時、神奈川県警の捜査員と顔を合わせ、話をした。家宅捜索と事情聴取を行うために、6人の捜査員がマンション近くで待機していたのだ。ワゴン車に乗った捜査員は全員私服で、ラフな格好だった。マンションには裏口から入る予定で、報道陣に見つからないようにそういう格好をしていたのだった。
田代さんが妹家族と居住していた部屋は到底薬物を隠しておけるような状態ではなかったため、捜査員は何も押収せずに引き揚げた。実際、そう広くないマンションの一室に田代さんが居候している形で、何かを隠せるスペースもないような部屋だ。妹2人の事情聴取も含めて1時間強で捜査員は去っていった。
捜査員が帰った後、私はその部屋に入り、妹さん2人とテレビのニュースを見ながら話をした。妹さんの携帯には心配した知人からひっきりなしに電話がかかってくる。自殺しようなどと変な考えを起こしたらいけないと心配して電話してきたという知人との通話の後、下の妹さんは号泣していた。実際、「お世話になった人たちに合わせる顔がない。死んでしまいたい気持ちだ」と話していた。
田代さんは2年前の6月に出所したその日から、上の妹さんの家に身を寄せ、居候していたが、その後は下の妹さんと一緒に暮らすことになった。この1年ほどはその妹さんと生活し、彼女は田代さんを応援する様々な人とも顔を合わせるようになっていた。
その日、2〜3時間、マンションで妹さんたちといろいろな話をした。この2年3カ月の間、本当にたくさんの人が田代さんの社会復帰のために尽力した。その結果、仕事も順調に増えていっていた。それが今回、全て無駄になってしまったのだ。怒るとか嘆くといった感情でなく、支配したのは脱力感だった。話しながら、2人の妹さんはしばしば涙ぐんだ。
いったいどうして……。それが共通の疑問だった。仕事も順調だし、周囲の応援も拡大しつつあったのに、なぜ再び薬物に手を出したのか。
今回、改めて薬物依存の怖さを思い知らされた。田代さんは著書『審判』の帯にも「刑務所は地獄だった」と書いているのだが、その地獄へどうして舞い戻ってしまうことになったのか。この2年余、支援してくれた人たちがどんなに落胆することになるかも考えればわかるはずだ。それにもかかわらず薬物に手を出したというのは、依存症の恐ろしさというしかない。
ネットはもちろん、ワイドショーなども前にも増して田代さんを激しく断罪し罵っているが、本人を断罪したり処罰するだけで薬物依存が解決できると思うのは大きな誤解だ。ある種の病気だという認識をもって、治療プログラムをどう社会化していくか考えない限り、薬物依存の軽減ははかれないだろう。タレントの場合のみ大きく報道されるが、これはあくまでも氷山の一角だ。
麻薬大国アメリカでは、約20年前に、薬物依存の克服は処罰だけでは不可能だとしてドラッグ・コートというシステムを導入した。処罰の代わりに治療プログラムを受けさせるという考え方だ。依存症を治療して治さない限り、刑務所に送るだけでは再犯を繰り返すことになるという反省から取り入れられたものだ。
アルコール依存やうつ病と同じように、薬物依存もある種の病気だという認識がもっと広がれば社会的対処のシステムもできてくると思う。厳しく断罪して刑務所にぶちこめ!という識者ばかりがワイドショーで声高に叫んでいるうちは、現状は変わらないような気がする。日本も薬物対策にもっと本腰を入れなければ、取り返しのつかない事態に陥ってしまうのは明らかだ。