【「麒麟がくる」コラム】織田信長はどんどん昇進。信長は官職についてどう考えていたのか
■信長と官職
大河ドラマ「麒麟がくる」の第39回「本願寺を叩け」では、織田信長がどんどん出世する姿が描かれていた。当時の大名は官途や栄典授与を欲して、朝廷に献金をすることがあった。
では、信長は官途について、いかなる考えを持っていたのであろうか。信長と官途について、これまで多くの研究者によってさまざまな説が提示されてきた。次に、信長と官途の問題について、検討することとしたい。
■昇殿を果たした信長
天正3年(1575)3月、信長は従五位下に叙され昇殿を果たした。さらに翌年11月には権大納言と右近衛大将を兼ねている。近衛大将は「幕府」の唐名でもあり、実に大きな意味があった。
これは、室町幕府の将軍の例にならっており、朝廷も信長を将軍と同じように処遇していたことを意味しよう。しかし、実際の信長の昇進スピードは速く、義昭を上回るものがあった。
特に、右近衛大将の任官に際しては、室町幕府の将軍のケースと同じくわざわざ陣儀を開き、陣宣下があったほどである。
このとき信長は禁裏に陣儀を建立させているが、それは本式のものであったという(『兼見卿記』)。信長は朝廷や幕府の伝統的権威を重んじていたので、本式にこだわったということになろう。
■信長の順調な出世
その後も信長は順調に昇進しており、天正5年(1577)11月20日には、ついに右大臣兼右近衛大将に任じられた(『公卿補任』)。
右大臣という地位は、令制の官職において太政大臣、左大臣に次ぐナンバー3の位置にあった。いかに信長が権力を握ったからとはいえ、右大臣という地位は破格といえるであろう。
むろん、朝廷は信長を疎かにしてはならないと考えたのであろうが、信長はさほど令制の官職に興味を示さなかったといわれている。
翌年1月、信長は節会を催すため、その費用を自身で負担している。節会とは、節日そのほか重要な公事のある日に、五位または六位以上の諸臣を朝廷に集め、天皇が出御して催した宴会のことである。
このときの節会は、信長の「任大臣」のものである。しかし、朝廷には独自に節会を催す費用がなかったため、絶えて久しいものであった。信長が節会を復活させたということは、朝廷への奉仕の一環と考えてよいであろう。
■官職に固執しなかった信長
ところが、信長はこうした栄誉にすがりつくことはなかった。天正6年(1578)4月9日、突如として信長は、右大臣兼右近衛大将を辞したのである。順調に栄達の道を進んでいただけに、実に不可解なことであった。
実は、信長は源頼朝がほんの短い期間で、権大納言兼右近衛大将を辞した例にならったともいわれている。信長が職を辞した理由については、辞官の奏達状によると次の3つが挙げられている(『兼見卿記』)。
(1)未だ征伐が終わることがない(敵対勢力が残っている)ので官職を辞退したい。
(2)全国平定を成し遂げた際には、登用の勅命を受けたい。
(3)顕職(重要な地位)は、子の信忠に譲りたい。
(1)については、これまでも信長が右大臣兼右近衛大将の職にあって、各地で戦い続けていたので、大きな理由とは言いがたい。ましてや信長は、通常の公家のごとく朝廷に奉公をしていたわけではないのである。
(2)については、(1)と連動しているが、天下平定を条件に今後任官することを否定しない含みをもたせている。
(3)については、重要な地位を信忠に譲りたいと意思表示しており、織田家自体が今後の官職を受けないことを表明したわけではない。ただ、重要なのは、正二位を返上していないという事実である。
この点に関しては、「朝廷の枠組みから解放されようとした」「天皇を自身の権力機構に取り込もうとした」という説もあるが、信長の朝廷政策を考慮すると考えにくい。信長の神格化へとつながるとも指摘されているが、論拠が乏しいといわざるを得ない。
また、正二位に止まったことに関連して、「のちに太政大臣に就任する意向があった」という説も提示されているが、こちらも論拠が薄いといえる。
■信長の真意
むしろ、信長は正二位に止まって朝廷との適度な距離を保ちつつ、子の信忠を任官させたと考えるほうが自然であろう。信忠に官職を与えることによって、相応の権威を与える意味があったのである。
特段、信長は官職に強い執着心を持っていたという節がない。逆に、その利用法を心得ていたのではないだろうか。信長が配下の者に官途の推挙をほとんど行わなかったことも、大きく関係しているように思える。
天正9年(1581)3月7日、信長は左大臣に推任された。ところが、信長の回答は、正親町の譲位後に官位を受けたいというものであった。
朝廷では、信長の申し出に対して「当年、金神により御延引」と回答している。金神とは陰陽道でまつる神のことで、殺伐を好むおそるべき神であり、この神の方位は大凶方とされていた。
そのような理由から、正親町天皇は譲位を行わなかった。朝廷の意向を汲み取り、信長は譲位を進めることはなかったのである。
このように信長は喜んで素直に官職を授かるのではなく、それなりの戦略があったようだ。