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【深読み「鎌倉殿の13人」】木曽義仲を支えた「義仲四天王」とは何者だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
「義仲四天王」とは。木曽義仲を支える有能な武将4人のことである。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、木曽義仲の配下の者があまり登場しないが、「義仲四天王」なる精鋭がいた。「義仲四天王」とは何者だったのか、その点を深く掘り下げてみよう。

 ところで、「義仲四天王」は当時から存在した言葉ではない。のちの人が義仲の有能な武将を総称して、「義仲四天王」と名付けたのである。

1 樋口兼光(?~1184)

 樋口兼光は、中原兼遠の子として誕生した。兼光は幼い頃から、木曽義仲の乳母子としてともに成長し、弟の今井兼平とともに義仲の側近として支えた。

 治承4年(1180)、以仁王の「打倒平家」の令旨を受けた義仲が兵を挙げると、ただちに従って各地を転戦した。幾多の戦いで勝利に貢献した兼光は、寿永2年(1183)7月に義仲とともに入京を果たした。

 同年9月、義仲が播磨、備前、備中方面に出陣すると、兼光は留守を預かって、後白河法皇を監視した。兼光は義仲の腹心として重用され、後白河と対立した際には、その身柄を捕縛するなどした。

2 今井兼平(1152~84)

 今井兼平は、中原兼遠の子として誕生した(兼光の弟)。兼平は幼い頃から、木曽義仲の乳母子としてともに成長し、兄の兼光とともに義仲の側近として支えた。

 治承4年(1180)以降、兼平は兄の兼光とともに各地を転戦し、倶利伽羅峠の戦いなどで平家の軍勢を打ち破った。寿永2年(1183)9月、義仲が備中方面に出陣した際には、敵を討ち取る軍功を挙げた。

3 根井行親(?~1184)

 根井行親は、望月国重の子として誕生した。保元元年(1156)に保元の乱が勃発すると、源義朝(頼朝の父)の軍勢に加わり、大いに戦功を挙げた。

 治承4年(1180)に義仲が挙兵すると、行親はその動きに呼応して兵を挙げた。その後は義仲に従って各地を転戦し、平家との戦いで大いに貢献した。

4 楯親忠(?~1184)

 楯親忠は、根井行親の子として誕生した。生年不詳ながら、まだ青年武将だったと考えられる。治承4年(1180)に義仲が兵を挙げると、親忠は父の行親とともに各地を転戦した。

■むすび

 「義仲四天王」の来歴を物語る史料は乏しいが、いずれも信濃に本拠を置く屈強な武将だった。彼らは義仲の右腕として、大いに軍功を挙げた。しかし、源義経が上洛すると、彼らは戦いに敗れて非業の死を遂げた。その辺りは、改めて取り上げることにしよう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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