「どうする家康」に登場した井伊直政は古代豪族の末裔か
4月23日の大河ドラマ「どうする家康」のラストで井伊虎松が女装して踊り子にまぎれて徳川家康を襲うという衝撃的な登場をし、30日放送の冒頭では家康から許されて解放された。この虎松はのちの家康四天王の一人井伊直政である。
この井伊氏は遠江の国衆で、今川、武田、松平などの有力諸氏のはざまに位置し、いつも苦難に遭っていた。当主は何度も殺され、女城主の時代もあったことは、2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」で取り上げられた。
井伊氏のルーツ
さてこの井伊氏、江戸時代に編纂された幕府の公式系譜集である『寛政重修諸家譜』によると、藤原北家で良門の子利世が祖とある。このため、一般的には井伊家は藤原北家の子孫とされているが、実は、公家の系譜として最も信頼性の高い『尊卑分脈』には、良門の子に利世という名はない。
江戸時代初期に『藩翰譜』を編纂した新井白石もこれを指摘しており、井伊家は駿河・遠江に広がった藤原南家の子孫ではないか、と示唆している。
また、『寛政重修諸家譜』には面白い逸話が掲載されている。遠江国村櫛に住んでいた井伊共資は、寛弘7年(1010)に井伊谷八幡で井戸の中に生まれたばかり男の赤ちゃんを見つけた。そこで、その子を家に連れて帰ってわが子のように育てたのが共保で、成長した共保は井伊家を継いで井伊谷の地に移り住んだとされる。
以後、井伊家は近隣に多くの分家を出しながら発展を続け、戦国時代初期には遠江西部を代表する国衆にまで成長した。
この不思議な伝承は、共資以前と、井伊谷の国衆となった共保以降は本来別の家であったことを暗示している。
古代「井の国」
浜名湖の北側の地域には、古代「井の国」があったとされる。実際、ここには北岡大塚古墳など古墳時代前期から中期にかけての首長墓とみられる古墳がいくつもあり、古代豪族がいたことがわかっている。
地方の古代豪族の末裔は、奈良時代以降も土着の勢力として残っていた可能性が高い。そこに、中央から貴族の庶流が地方官僚として派遣されて住み着き、やがて両家が婚姻関係を結んで同化していったことは珍しくなかったのではないか。
井伊氏もそうした例の一つで、この逸話は共保を境に地方の古代豪族から中央貴族である藤原一族の末端へと出自が変化したことを示していると考えられる。
井伊谷には小堀遠州作の石庭で知られる井伊氏の菩提寺、龍潭寺がある。そして寺の南に広がる水田の中に、井伊氏の祖共保が生まれたという井戸が今も残されている。