清須会議後、羽柴秀吉と柴田勝家が揉めた真相について考える
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、柴田勝家が羽柴秀吉に討たれてしまった。2人が揉めていた真相について、検討することにしよう。
勝家と秀吉との関係については、天正10年(1582)10月6日の勝家書状(堀秀政宛)からその一端をうかがうことができる(『南行実録』)。1つ目には、勝家とお市の方との結婚が認められたことが書かれている。主人の三法師がまだ幼かったので、許可を得ず話がまとまったという。
補足しておくと、勝家がお市を妻に迎えたのには、重要な意味があった。信孝にとって、お市は叔母に当たる。いわば、勝家とお市の結婚は、信孝との結束を強める意向が作用したと推測される。それゆえ2人の結婚により、勝家と信孝の関係は強固になったと考えられる。
2つ目は、清須会議での決定事項がたびたび変わるので、多くの人が不審に思っているという。秀吉と勝家は、もともと昵懇なのでよく相談し、「天下御分国中静謐」について話し合って決めることはもちろんのこと、清須会議以来の決定はいうまでもなく、すべては人々の分別にあると勝家は考えた。
この勝家の意見は、宿老体制に綻びが生じたということであろう。勝家はころころ方針の転換が行われたので、秀吉を非難しているのである。
3つ目は勝家自身のことであるが、長浜(滋賀県長浜市)を拝領してから、知行の分配をめぐって問題が生じていたようだ。勝家は、一切不正をしていないと弁明をする。4つ目は、織田信孝と丹羽長秀に対して、三法師の御座を移るよう要請したことを記している。行き先は、安土城(滋賀県近江八幡市)だろう。
5つ目には、勝家が内輪もめを一刻も早く解決したいとする一方、秀吉が分国内に新城(山崎城:京都府大山崎町)を築城するなど、勝手な振る舞いをしていることを指摘する。当時、城は軍事拠点だったので、普請することは警戒された。山崎は摂津国から山城国への通行路だったので、なおさらだったに違いない。
この書状を読む限り、清須会議での決定事項が履行されず、種々問題が噴出したことがわかる。その問題を集約すれば、秀吉の独断専行ということになろう。少なくとも勝家にとって、秀吉の動きは不穏に映った。勝家は問題を解決すべく、多少の不満を抱きつつも、秀吉との話し合いを進めていた姿勢がわかる。
しかし、勝家と秀吉の関係は徐々に決裂していった。そして、最初に血祭りに挙げられたのは、勝家と強い関係を結んでいた、信孝だったのである。
主要参考文献
渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)