タモリをギョーザ漬けに? 歌う美輪の背後でスイカを食べる? 伝説のテレビマン・佐藤輝の奇想天外な演出
昨日21日に放送された『モヤモヤ映像廃棄センター』(テレビ東京)。
これは、今年の秋に新社屋に移転予定のテレビ東京が、そのライブラリに残る約14万本にのぼるテープから、選りすぐりの“モヤモヤ映像”を大放出するという番組である。
番組では、司会のさまぁ~ずの若かれし日の映像や、『TVチャンピオン』やテレ東独特のスポーツ中継、たった7回で打ち切りになったテリー伊藤(当時・伊藤輝夫)演出の伝説の子供番組『夢のコドモニヨン王国』(構成は宮沢章夫!)などなど貴重映像が数多く紹介された。
また「テレ東が廃棄した幻の番組持ってる人を大捜索!!」というコーナーでは、開局から1980年くらいまでテープを使いまわしていたこととテープを保存するスペースがなかったという理由で大半を廃棄してしまっていた番組を発掘。視聴者やその番組の出演者から映像を提供してもらい、『対決!スーパーカークイズ』や『勝抜き腕相撲』などの発掘に成功した。
そんな中でも特に出色だったのが伝説の5分番組『私…』だ。
これは、1977年から1年間、日曜の夜9時48分から放送されていたミニ番組。いわゆる隙間番組だ。だが、その出演者のリストを見ると驚くほど豪華。
菅原文太から始まり、桃井かおり、太地喜和子、藤竜也、岡本太郎、赤塚不二夫、泉谷しげる、岡林信康、桃井かおり、ジョニー大倉、具志堅用高、内田裕也……、と多種多様な大物芸能人が出演している。
そして今回の番組で詳しく紹介されたのが山口百恵の回だ。当時山口百恵は18歳。アイドルとして人気絶頂の頃だった。
「砂時計は失われた日々の痛み」と題された放送は百恵自身による初恋のエピソード独白から始まり、突然、電車の中に山口百恵があらわれ、ひとりで歩くという大胆な映像の中、「時間を止められるならば、今18歳っていう時点で時間をぴったり止めてしまいたい」という彼女のモノローグが挿入される。
この番組の映像を演出したのは伝説のテレビマン・佐藤輝である。
彼は『映画秘宝EXモーレツ!アナーキーテレビ伝説』(洋泉社)のインタビューに答え、この時のことをこう振り返っている。
■「自分が衝撃的だと思うものを撮りたい」
佐藤輝は18歳でテレビ業界に入ると、TBSでのAD経験を経て、1970年、21歳のときに、制作会社「テレビマンユニオン」の創設に参加する。
いまでこそ、制作会社は珍しくない。というよりも現在放送されているテレビ番組の大半がなんらかの形で外部の制作会社が入っているのが普通だ。
だが、当時はまだ日本にはそんな概念はなかった。その先駆となったのが「テレビマンユニオン」だった。
テレビマンユニオンは萩元晴彦、村木良彦、今野勉らTBSのディレクター・プロデューサーたちが中心となってテレビマンの自立と創造や表現の自由を手に入れるために設立。
以降、『世界ふしぎ発見!』、『天皇の世紀』、『情熱大陸』、『アメリカ横断ウルトラクイズ』、『世界ウルルン滞在記』などなど数多くの名番組を手がけている。ちなみに映画監督・是枝裕和もテレビマンユニオン出身である。
佐藤輝のテレビマンユニオン時代の代表作といえば1972年~73年まで放送されていた『私がつくった番組』(東京12チャンネル)だろう。
この番組は、テレビ東京開局50周年の際に放送された『開局50周年!テレビ東京“50人の証言”』でも紹介され、大きな話題を呼んだ。
特に凄かったのは、美輪明宏の回だ。「サヨナラ丸山明宏」と題され、男装の美輪が、カンツォーネの名曲「オーソレミオ」を歌い上げる中、その背後になぜか普段着の中年女性が大勢いて、歌っている美輪を尻目になぜかカメラに向かってスイカを黙々と食べ続けるというシュールな映像が放送された。もちろんこの回の演出は佐藤輝だった。
じつは佐藤はこの回の演出をする前、加藤和彦の回を演出し、テレビマンユニオンの幹部から酷評された。カレーパーティをする加藤の周りを20人ぐらいがローラースケートでぐるぐる廻るというこれまたシュールな映像だった。あまりに奇想天外な映像ゆえ、会社で大問題になり、スポンサーも激怒。なんとかプロデューサーが身体を張っておさめ、打ち切りは免れたが、次に撮る回が視聴率5%を取らなければ番組降板という条件が課せられた。
『私がつくった番組』は通常でも平均2~3%の番組。5%を超えるなどというのは無茶ぶりだった。
だから、少しでも視聴率を上げようと、視聴者に分かりやすい方向のものを作るのが普通だ。
しかし、佐藤がやったのが真逆だった。
それが、美輪明宏の回、即ち、美輪が歌っている背後でおばちゃんたちがスイカを食べているという、分かりやすさとはかけ離れた映像で勝負したのだ。
結果、なんとその放送は視聴率5%を超え、佐藤はその後、同番組を最も多く演出することになるのだ。
ネット上でも一時話題になった紙吹雪が降る中、裸にふんどし一丁の女たちと同じくふんどし一丁の赤塚不二夫が踊り狂う「激情No.1」も佐藤輝による演出だ。
しかし、そんな「やりすぎ」な演出が災いし、テレビマンユニオン幹部と対立。74年に佐藤は同社を退社し独立した。
■「責任誰か取らないの?」
独立した佐藤が手がけたのが前述の『私…』だった。
もともとは、「スターのご趣味拝見」という企画だったという。だが、佐藤がそんなヌルい企画をそのまま撮るはずがない。
山口百恵の他にも、数多くの大物が「佐藤輝の演出ならば」と出演を快諾。
すると、赤塚不二夫は亀甲縛りされ滝に打たれ、桃井かおりはシャボン玉が飛ぶ中スクラップの車に乗せられ宙吊りにされた。岡林信康はバカ殿に扮し、セットを破壊し、その撮影所を出入り禁止になった。
さらにまだカルト芸人だったタモリも『私…』に出演しているという。
ギョーザが好きだから、ギョーザの風呂に入れるという発想がもうどうかしている。だが、そんな失敗を恐れない自由な発想と多くの失敗が傑作映像を生んでいったのだ。
『私…』の山口百恵の回などを観たスタジオのゲスト所ジョージは言う。
「でもこれテレ東には保存されてないんでしょ? 責任誰か取らないの?」
事実、この映像はテレ東には保存されておらず、佐藤輝本人が保存していたものだ。
これは「開局から1980年くらいまでテープを使いまわしていたという理由とテープを保存するスペースがなかったという理由」だが、これはテレビ東京に限った話ではない。
荒俣宏はこれを不満に感じ1997年に刊行された自著の中でNHK放送博物館のスタッフにその理由を尋ねている。
もちろん現在はこうしたものが文化的に保存されるよう遅ればせながら法整備も進んできて、「放送ライブラリー」を始め、各局もその保存に取り組んできている。だが、テレビ創世記の頃の映像は法的にもむしろ残っていないのが当たり前だったのだ。
これは文化的に大きな損失である。
「昔のテレビは(今と比べて)面白かった」
そんなことをよく言われる。でもそれはあまりに一面的だ。
『1989年のテレビっ子』では、80年代のテレビのアツさを書いたが、過去を知ることは決してノスタルジーに浸ることだけではない。
過去のテレビの面白さを知るからこそ、今のテレビの面白さに気づくこともできるのだ。
その逆もしかりだ。相互に関連しあうから面白い。
だからこそ、なんとかしてできるだけ多くの過去の映像を保存し、もっと広く観られるようにしてほしい。
それこそがテレビ文化の未来につながるはずなのだ。