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瀬名は、戦のない世を作ろうとした平和主義者だったのか!? ありえません

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
瀬名を演じた有村架純さん。(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

 今回の「どうする家康」では、瀬名の平和に関する発言が大変注目された。瀬名は戦のない世を作ろうとした平和主義者だったのか、考えてみることにしよう。

 まず、ドラマの内容を確認しておこう。徳川家康は、妻の瀬名と子の松平信康が密書を各地に送ったこと、そして武田方を含めて大勢の武将らが瀬名のもとを訪問したことを知った。

 家康は熟慮のうえ、配下の石川数正らとともに瀬名の屋敷を訪ねると、瀬名と信康は予感していたかのように待っていた。2人には、まったくやましいところがなかった。むしろ、堂々としていたので、同行した数正や酒井忠次は驚いたようだ。

 瀬名の屋敷には、武田方の穴山梅雪、千代のほか、なんと今川氏真までもが同席していた。その直後、家康は瀬名が抱いていた、壮大な構想を知ることになったのである。

 瀬名の計画とは、国々が争い奪い合うのではなく、融和することを目指したものだ。どの国でも自由に商売を行えるようにし、同じ銭貨を用いることも提唱された。もっとも重要なことは、何事も武力行使で解決するのではなく、慈愛の心で結びつくことだった。

 この精神は、ドラマの中における家康の平和への理想像と一致する。瀬名は家康の意を汲み取り、自らがその理想を掲げて実行しようとしたのだ。この意見には、同席した氏真が全面的な賛意を示した。とはいえ、数正と忠次は、簡単ではないと忠言した。

 こうして瀬名は、計画を実行しようとしたが、武田勝頼は梅雪に対して、徳川が秘密裏に武田と結託しているとの噂を流せと命じた。当然、この噂はすぐに信長の耳に入り、対処を迫られることになったのだ。

 通説によると、瀬名と家康の夫婦仲は悪く、しかも瀬名と信康は進んで武田方に通じていたという。家康は信長についていく方針だったので、2人を切るよりほかの手段がなかった。平和云々の前に、すでに家康と瀬名との関係が破綻していた可能性が高い。

 これまでのドラマの中で、瀬名は家康の良き妻として描かれてきた。信康も良い息子だった。ドラマの進行上、瀬名らが家康に背くというのはまずいので、このようなストーリーになったのだろう。

 しかし、瀬名が平和を実現しようとしたという史料もなく、家康に加えて梅雪や氏真が同席していたというのも無理筋である。残念ながらありない話なので、「フィクションだから」ということにしておこう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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