【京都市東山区】大河ドラマではほとんど語られない関白相論や秀吉の京大仏建立と千僧供養の意味とは?
大河ドラマ「どうする家康」は、関白の座を手に入れた秀吉が家康の下に妹の旭姫や母なか(大政所)を次々に送って上洛を則す様子が描かれるようです。これまで藤原北家の嫡流である五摂家(近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家)の持ち回りとなっていた帝(みかど)に代わって政(まつりごと)を行う関白という重責を何故秀吉が手に入れることができたのでしょうか。
諸説ありますが、天正13年(1585年)に羽柴秀吉が内大臣に昇進した事をきっかけとした二条昭実と近衛信輔の間で発生した関白の地位を巡る朝廷内の争い、いわゆる関白相論をうまく利用した秀吉の策略がありました。結果、秀吉は近衛前久の猶子として関白宣下を受け、近衛家に1000石、他の摂家に500石の加増があったと言います。また秀吉関白就任の翌日に、仏教界の最高位である准三后宣下を二条昭実の弟でもある醍醐寺の義演が受けています。
またこのころから、大仏と大仏殿の建立が行われています。当時、交通の要所だったこの地に目を向け、後白河院や清盛の栄華にあやかろうと思い立った秀吉は、その権勢を天下に誇示するため、奈良の大仏を模した大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営します。本堂や後白河上皇の御陵をも、その境内に取り込んで土塀を築きました。今も、その遺構として南大門・太閤塀が残されています。
諸説ありますが、秀吉は、没後、神格化されるために、阿弥陀が峰に西向きに豊国廟(秀吉の墓)を建てさせ、そこから真西に向かって、ふもとに豊国神社、その西に、淀君との最初の子で早世した 鶴松を祀った祥雲禅寺、その西に、方広寺大仏殿、さらに真西に向かったところに、本願寺に土地を与えて、西向きに阿弥陀堂を建てさせ、一直線上に配置しました。正面通は、方広寺から、鴨川の正面橋を渡り、本願寺まで続いていました。これは秀吉が西方浄土へと赴くラインを敷いたのだと言われます。
徳川家康は、秀吉の神格化をふせぐために、豊国廟、豊国神社を壊滅させ、参道をふさぐように新日吉神宮を建てさせ、祥雲寺を、秀吉が壊滅した根来寺由来の智積院に与え、方広寺は妙法院の管理としました。さらに、方広寺と本願寺の間には、かつて秀吉が隠居させた教如に東本願寺を創建させ、本願寺を分裂し、東向きに阿弥陀堂を建てさせました。
さらにその間に、東本願寺に土地を与え、渉成苑を建てさせたのです。秀吉が神となって西方浄土へ赴く、また衆生が秀吉を参拝するとされた、豊国廟から本願寺の直線を、ことごとく分断したのはやはり家康でした。しかし、江戸時代中期頃になってから、方広寺から西本願寺へ向かうこの道が「正面通」と称されるようになったといいます。
大仏殿は、文禄4年(1595)9月に完成し、千人の僧侶により落慶供養されたといいます。惣無事令(そうぶじれい)において大名間の私闘を禁じ、刀狩と太閤検地、海賊禁止令などで農村部他の武装を解き、統制を敷いた秀吉は天下支配の手段として宗教統制にものりだしました。当時、炎上した奈良の大仏は再建されていませんでしたので、秀吉は京の都に諸宗の中枢となるべき大仏殿を築き、その千僧供養においては、主たる宗派からは百人ずつ、千人の僧を出仕させ、忠節の値踏みとしたと言われています。
これにより比叡山や本願寺を徹底的に攻撃し武装解除した信長を引き継ぎ、金剛峯寺(木食応其の斡旋)、根来寺(攻撃)を武装解除した秀吉がさらに宗教勢力の牙を抜いて、天下人秀吉の前に屈伏させたと言います。
まだまだ話は尽きない三十三間堂近辺へぜひ足をお運びください!
大仏殿跡緑地公園 京都市東山区茶屋町531