台湾野球の新しい聖地「棒球名人堂」に足を運ぶ
世界一スマートな「身売り」を果たした台湾の名門球団
日本のそれにひけを取らない大きさと設備を備えたドーム球場が昨年オフに完成し、ますます盛り上がりを見せる台湾プロ野球。その新球場、台北ドームの「プロお披露目」として、台湾でも人気の巨人軍が球団創設90周年記念イベントとして今シーズンのキャンプ後に2連戦を行った。その相手として選ばれたのが、台湾で人気トップを争う中信ブラザーズと楽天モンキーズだった。とくに初戦の相手となった中信ブラザーズは、一度身売りを経験しているものの、台湾プロ野球創設時から続く名門球団で、そのニックネーム、「ブラザーズ」は、かつてのオーナー企業「兄弟」の名を残し、チームカラーの黄色も踏襲するなど、台湾を代表するチームとしてファンに愛されている。
台湾プロ野球は、1989年に「中華職棒連盟」が発足、翌年から4チームによりリーグ戦が行われ、その歴史の第一歩を記したが、その旗振り役となったのが、ホテルチェーン、兄弟大飯店グループを率いた洪騰勝(ホン・テンシェン)だった。
もともと野球好きだった洪は、その名の通り兄弟で経営してきたホテルの経営が軌道に乗ると、社員のクラブ活動だった野球チームを1984年に本格的な実業団チームに仕立て上げ、その2年後の1986年には、国際空港のある桃園郊外に野球場を建設した。そしてプロリーグ創設に向け、国内の大手企業に声をかけ、自らのチームをプロ化。流通大手の統一、食品大手の味全、総合サービスグループの三商を加えた4企業によってアジア第3のプロ野球リーグを発足させたのだった。そして、洪のつくった兄弟象(エレファンツ)はたちまちのうちに台湾を代表する人気チームとなり、2度の3連覇を含む7度の優勝を成し遂げた。
しかし、八百長事件などによる台湾プロ野球の人気低下と本業の不振も相まって、名門・兄弟エレファンツは、2013年シーズン限りで球団を手放すことになる。譲渡先として手を上げたのは、かつてホエールズというプロ球団を保有していた金融大手の中国信託だった。八百長が本業のイメージの悪化につながることをおそれ、プロ野球から撤退した過去をもつこの企業は、エレファンツ引き受けにあたって、自社がかつて所有していたチーム名を復活させることはせず、「兄弟エレファンツ」の名跡を継ぐべく、「兄弟」をニックネームとして残し、「エレファンツ」の象のキャラクターを引き継ぎ、「中信兄弟(ブラザーズ)」という旧オーナー企業の名を残すという世にも稀な球団譲渡を成し遂げ、引き続き台湾ナンバーワンの人気球団の地位を保っている。
そして、元のオーナー企業、兄弟大飯店の「野球愛」はいまだ変わらない。
台湾にも野球殿堂があることは、5年前に記事にしたが(https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/54351f3545758a969053f695f3362749757f713e)、2014年に発足したこの国の野球殿堂は長らく「ホーム」を持たなかった。この状態に終止符を打つべく手を上げたのが、台湾プロ野球の礎を築いた兄弟大飯店だった。
2019年に桃園郊外に新設した自社ホテルに付随して硬球を模した球場の建物を建設し、ここを恒久的な野球殿堂、台湾語で「棒球名人堂」とした。
ホテルの名は「名人堂花園大飯店」。周囲にはなにもない場所に建てられたこのリゾートホテルは、このホテルと台湾野球を堪能する時間を過ごすために建てられたまさに「殿堂」である。
台湾プロ野球揺籃の地で行われた唯一の公式戦
この名人堂花園大飯店を訪ねるには、自家用車か台北市内にある兄弟大飯店もしくは台湾新幹線・高鉄桃園駅からのシャトル(要事前予約)でアクセスするのが最もポピュラーな方法だろう。台北からのシャトルなら1時間弱で到着する。桃園市内に立地しているとはいえ、市街地からは約25キロ。ホテル前の住宅地まで公共のバスは通じているが、1時間以上かかる。正直なところ、アクセスは決してよくない。なぜこのような辺鄙なところに、野球をテーマにしたホテルとミュージアムを建てたのだろう。
その秘密は、ホテル前に広がる野球グラウンドにある。日本の公園にあるちょっと立派な草野球場のようなグラウンドこそ、台湾プロ野球揺籃の地と言っていい場所なのである。
「ロンタンって言ってました」と教えてくれたのは、2001年に兄弟エレファンツでプロデビューした養父鉄さんだ。亜細亜大学、日産自動車とアマチュア球界の名門でプレーしながらも、日本のNPBから声がかかることがなかった養父さんは、兄弟からのラブコールに応え、海をわたり台湾でプロキャリアを始めた変わり種だった。
台湾では、いきなり二桁勝利をマークし、奪三振のタイトルを獲得するなどエース級の大活躍。その年のドラフトでダイエー(現ソフトバンク)から指名を受け、「逆輸入」でNPB入りした。
日本では、故障もあり一軍登板を果たせないまま1シーズンでリリースされたが、その後、アメリカに渡り、2004年には3Aでノーヒットノーランも記録したほか、メキシコ、ベネズエラのウィンターリーグでも活躍。2006年に兄弟に復帰し、このシーズン限りでユニフォームを脱ぎ、現在は神奈川で野球アカデミーを運営し、後進を育てている。
そんな養父さんは、ルーキー時代の2001年の台湾シリーズでMVPに輝くなどした功績が認められ、名人堂の建物が完成した時には、招待を受けて来台している。
名人堂の前に広がる「ロンタン」グラウンド、正式には龍譚棒球場だが、ここでは1試合だけ公式戦が行われている。その先発マウンドに立ったのが、他ならぬ養父さんだった。養父さんは、当時をこう振り返る。
「もともと会社の草野球場だったらしいですよ。プロ野球ができてから、エレファンツが使うようになったらしいです。僕らもいつも練習で使っていましたね。チームの本拠地は台北で、それまでは、試合の大半は台北の市営球場でやっていたんですが、その球場がなくなってしまったんで、僕がプレーした年は近くの新荘球場がホームでした。チームメートは台北の本社のホテル近くの安ホテル住まいでしたね。僕ら外国人選手だけは、その近くのアパートを球団が借りてくれていました。あの頃は、試合は週末だけで、それ以外は、毎日、ホテルに集合してロンタンに通って練習でした」
当時は、「名人堂」もホテルもない。こんなところで公式戦を行ってもファンが来るとは思えない。そのことについて話を向けると、あくまで自分の印象だと断って、養父さんはこう話してくれた。
「あの頃は、数年前に起こった野球賭博騒動のせいでプロ野球人気が落ち込んでいた時期で、それもあったんじゃないですかね。一種のイベントですよ。ネット裏にあるスタンドは200人くらいしか入らなかったと思いますが、満員になりましたよ」
公式には、この球場の収容人数は5000人とされている。しかし、実際足を運んでみると、1,3塁ベース付近までしかないスタンドにこの人数を収容することは難しいだろう。養父さんの言う、200人ということはないにせよ、スタンドにはせいぜい2000人くらいしか入らないだろう。それでも、内外野のフェンス沿いに立ち見客を入れれば、5000人は入るかもしれない。養父さんの話では、試合当日は満員の観客だったというから、この山奥の球場は、さしずめ「台湾のフィールド・オブ・ドリームズ」のような様相を呈していたに違いない。
そんな龍譚球場を見下ろすようにそびえる台湾の野球殿堂、「名人堂」はなんと入場無料。ホテルに泊まらずとも入場することができる。
充実した「名人堂」の展示
ホテルの建物と通路で結ばれた「名人堂」へ足を運ぶ。
ロビーから通路を渡り硬球を模した建物の1階からエレベーターで最上階に上がって見学はスタート。この最上階には、「名人堂」のオフィスも入っている。
名人堂には、アメリカや日本と同じく、台湾野球の発展に寄与した偉人たちのレリーフが、飾られている。「殿堂入り」第一号は無論のこと、「台湾プロ野球の父」、洪騰勝氏だ。また、台湾籍の「世界のホームラン王」、王貞治氏や、日本のNPBで活躍した、郭源治氏(元中日)、郭泰源(元西武)氏、荘勝雄(元ロッテ)氏らも母国で「殿堂入り」している。
最上階から下るのが順路で、野球の歴史、台湾の生んだ名選手のユニフォーム、最後は野球とはどんなスポーツなのかを実際にバットやグローブをはめて体感できる子供向けの展示へと移っていく。
さらに下ると、野球に興味のない子供への配慮からか、なぜかスヌーピーのコーナーになるが、これは野球好きのお父さんから子供まで楽しめるようにとの配慮だろう。ホテルの周囲には「花園大飯店」の名の通り庭が広がり、小さな池で子供たちが金魚釣りなどを楽しめるようになっている。また、隣接する体育館は台湾で人気のバドミントンに使用されており、現在、試合用のアリーナも建設中である。将来は、野球だけでなく様々なスポーツが楽しめるリゾート施設になっていくのだろう。
昨今、野球を通じた日台交流が盛んになり、多くの野球ファンが両国を行き来している。日本のファンには、新たに建設された世界最大級の台北ドームだけでなく、台湾野球の聖地にもぜひ足を運んでほしい。
(写真は筆者撮影)