甲子園への憧憬は海を越えて〜台湾のベースボールシティ嘉義に野球殿堂がやってきた
台湾野球の聖地、嘉義
野球好きの人々にとって「甲子園」という言葉には独特のノスタルジアがあるようだ。そのノスタルジアは国境を越える。
台湾南部の都市・嘉義。かつては、ここから聖山である阿里山へ延びる登山鉄道の起点駅として日本の鉄道マニアの間では著名だったこの町も、現在では2015年日本公開(台湾では前年公開)の映画『KANO:1931海の向こうの甲子園』で野球ファンの間ですっかり有名になった。「KANO」とは戦前の日本統治下において春夏計5回の甲子園出場を誇る嘉義農林学校のことである。「嘉義」は現地では「ジャーイー」と発音するが、日本統治下では「かぎ」と発音され、この学校は「嘉農」、つまり「かのう」として日本の野球ファンにもおなじみであった。
1895年に日清戦争の講和条約である下関条約が締結され、日本領となった直後から台湾各地で野球は行われていたというが、嘉義市はこの映画をきっかけとして「野球の町」として国内外に積極的にアピールするようになった。
町の玄関口である嘉義駅は、映画の舞台となった1931年当時のものから建て替えられているが、それでも戦前建設の歴史的建造物。ここから延びる中山路は、当時「大通り」と呼ばれ、初出場ながら準優勝に輝いた嘉義農林ナインが凱旋パレードを行った場所だ。駅から700メートル離れたそのパレードの終点にあるロータリーには当時のエースピッチャーで「KANO」の主人公、呉明捷の銅像を掲げた噴水がある。
中山路をさらに2キロほど進めば、嘉義高商学校が右手に見えてくる。
ここはかつて嘉義農林学校があった場所で、ここから練習場のあった嘉義公園までの歩道には嘉義農林や野球部の歴史を語るプレートが並んでいる。
嘉農ナインが猛練習に明け暮れたグラウンドは現在、市立野球場になっている。公園入口から球場へ進んで行くと、1931年の嘉農チームのメンバーを紹介した大きなプレートが見えてくる。「威震甲子園」と書かれたバットのモニュメントを前にして、甲子園を思わせるようなフォルムの市民球場がそびえていた。現在ここを本拠とするプロ野球チームはないが、地方試合として年数試合の公式戦が行われるほか、二軍戦もこの球場を使用している。
台湾の野球殿堂
次の日も嘉義公園に足を運んだ。夕暮れ時に訪ねた前日はすでに閉館していたのだが、今日31日まで嘉義市立球場では「棒球名人堂」つまり野球殿堂の展示がなされていたのである。
台湾では2014年から野球殿堂の表彰を行っている。日本球界に関わりのある人物としては、2015年に台湾籍の「世界のホームラン王」、王貞治が表彰され、その後、嘉農出身で、植民地統治下において、日本プロ野球最初の「台湾人」選手として巨人、阪神で活躍した呉昌征、ストッパーとして中日第1次星野政権を支えた郭源治の3人がこれまで殿堂入りしている。これまで述べ24人が殿堂入りを果たしているが、まだプロ野球の歴史が浅いこともあって、これまでの表彰者はかつてのアマチュア野球の選手、指導者が中心だ。
現在のところ、日本やアメリカのように、殿堂の恒久的な建物はないものの、全国各地を回って、殿堂のレリーフや野球に関する資料の展示を行っている。この秋にも殿堂入りした人々を顕彰する博物館が開館予定だという。
展示場は内野スタンド一塁側下にあった。この展示場の入り口は、嘉義の野球が最も熱かった1931年当時の甲子園球場をモチーフにしている。
入り口を入るとまずは、嘉農の甲子園出場の資料の展示。そしてその背後には、殿堂入りした顕彰者のレリーフが飾られている。
思えば、今シーズンは台湾プロ野球30年目のメモリアルシーズン。台湾球界は、新たな歴史を紡いでいくと同時に、先人の残した足跡をたどっている。
(写真は全て筆者撮影)