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五徳と大喧嘩した瀬名は、嫉妬深く、性格が悪い女だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康像。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、五徳と瀬名の口論がなかなかの見どころだった。瀬名はそんなに酷い女性だったのか、考えることにしよう。

 瀬名は今川氏の家臣・関口氏純の娘として生まれ、のちに徳川家康と結ばれた。当時、家康は今川氏の人質として駿府にいたので、政略結婚だったのは疑いないところだろう。

 最近の大河ドラマでは、瀬名と称されているが、築山殿として知られる女性である。なお、築山とは岡崎城(愛知県岡崎市)の近くにある地名なので、そこに屋敷を構えて住んだと考えられる。

 瀬名を物語る同時代史料は乏しく、多くは後世に成った二次史料に拠らなくてはならない。のちに瀬名は家康を裏切ったので、殺されてしまった。そのような影響もあって、瀬名の評価は芳しいものがない。

 『柳営婦人伝』には「無数の悪質、嫉妬深き婦人也」と書かれており、数々の悪行と嫉妬深さが強調されている。それは、『玉輿記』に記された「生得悪質、嫉妬深き御人也」と同じことである。

 家康の生涯を描いた『武徳編年集成』には、「其心、偏僻(心がかたよりひがむこと)邪佞(悪知恵があり、口さきがうまいこと)にして嫉妬の害甚し」とまで書かれているので、もはや罵倒のレベルである。徳川家では、完全に忌み嫌われていた。

 『改正三河後風土記』には、「凶悍(心が悪く、たけだけしいこと)にてもの妬み深くましまし」と評価されているだけではなく、瀬名が唐人医師の減敬と密通していたと記している。瀬名は性格が悪いだけではなく、浮気女だったというのだ。

 ほかにも瀬名の悪行が伝わっている。家康がお万の方と結ばれ、天正2年(1574)に次男となる秀康が産まれた。しかし、激昂した瀬名は、お万の方をいじめ抜いたうえに、素っ裸にして城内の木に括りつけたといわれている。そして、お万の方を城から追い出した。

 瀬名の悪評を伝える逸話は、後世に成った史料に書かれたもので、にわかに信を置くことができない。瀬名を死に追いやった家康に配慮して、いかに悪い女性だったかを強調したように思える。ドラマの最後、瀬名は歩き巫女と会っていたが、どうなるのだろうか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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