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打倒平家に燃える源頼朝にあえなく消された3人の武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝。(提供:アフロ)

 いかなる組織においても、絶大な権力を持つ人はおり、そういう人は敵が多い。源頼朝は絶大な権力者だったが、当初は不安定だった。それゆえ、周囲に敵が多く、ときに歯向かう武将を殺害する必要に迫られた。そのうち3人を紹介することにしよう。

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◎長狭常伴

 長狭常伴は生年不詳、安房国長狭郡(千葉県鴨川市の大部分)に本拠を置く豪族で、平氏方に与していた。治承4年(1180)、源頼朝は石橋山の戦いに敗れ、安房国に逃亡した。同年9月3日、上総行きを計画していた頼朝は、ある民家に宿泊した。

 これを知った常伴は、頼朝の宿所を襲撃しようと考えた。三浦義澄は常伴の動きを事前に察知し、これを討つことに成功したのである。頼朝はほかにも謀叛人がいることを警戒し、上総行きの計画を中止し、安西氏の屋敷へ移ったといわれている。

◎一条忠頼

 一条忠頼は、甲斐源氏の武田信義の嫡男である。元暦元年(1184)6月16日、忠頼は鎌倉で酒宴に招かれたところ、天野遠景らに討たれたという。忠頼が殺害された理由は、威勢を振るい、頼朝への謀反を画策したからである(『吾妻鏡』)。

 元暦元年(1184)6月5日、信義が持つ駿河守は源広綱に与えられた。頼朝が信義、忠頼の地位低下を画策して、信義から駿河守を取り上げ、忠頼に謀反の嫌疑を掛けて殺した可能性があろう。頼朝による信義の駿河守の解任、忠頼の殺害は、あらかじめ計画されていたのではないか。

◎上総広常

 治承4年(1180)、源頼朝が挙兵すると、房総に拠点を持つ大豪族の上総広常は味方となった。ところが、広常は武家政権を東国に樹立することを主張し、頼朝は朝廷との関係を重視して対立した。広常は頼朝に下馬の礼を取らなかったこともあり、両者の関係は徐々に悪化していった。

 寿永2年(1183)、梶原景時は頼朝の命により、双六を楽しんでいる最中に広常を討った。頼朝は、広常に謀反の嫌疑を掛けていたのである。しかし、のちに広常が無実だったことが判明し、残った一族は復権を果たしたという。

◎まとめ

 のちに頼朝は絶大な権力者になったが、十分な基盤を築いていなかった。頼朝は自らの力を見せつけるべく、歯向かう者やライバルを消す必要に迫られていたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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